第一章 2019年2月

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2019年2月18日 正午頃 東京オフィス

ディレクターに会議室に呼ばれるのは稀だった。少し前にベンがディレクターに見せた明らかに苛ついた態度が思い出される。何か悪い事が起こるのだろうか。私の感情は表に出ない。Fight、Flight、Freeze?私はいつもフリーズして、危険が去るのを待つ。

会議室の丸テーブルには小さなUFOが置かれていた。電話会議に使われる機器だが私はほとんど使った事がなく、ただUFOと呼んでいる。

「メグ(恵)さん、」HR部長のウェンディの声がUFOから聞こえてきた。「お話があります―」

私は目の前に平然と座るディレクター、フレッドの方を窺った。

「―申し訳ないですが、あなたの雇用契約を更新しない事に決めました。」

何度も練習してきたかのように、私の口がすぐさま「わかりました。」と言う。

友達から時々想像力が強すぎると言われる。上司の美代から従業員の解雇話を聞く度、自動的に自分が首切り台に向かう日を思い描いてきた。泣き崩れる人や激しく口論を始める人がいて、冷静な人もいる。私はなぜか冷静になることにした。

「明日から月末までの間にヘザーに業務の引き継ぎをするように。19日有給休暇が残っているので、 3月1日から消化して下さい。いいですね。」

次の仕事を探すのに30日はあるのかと、凍りついた心が和らぐ。私の基本的な権利なのだろうが、ウェンディに礼を言った。妹から時々人が良すぎると言われる。

「では退職日は3月31日でいいですね。今までありがとう、メグさん。」

ウェンディがさっさと話を終えようとしている。刺されて地上に血を流す私が見えないのは、香港からUFOを介して通信しているからなのだろうか。

待って!と心の中で叫ぶ。「あの…理由を聞いてもいいでしょうか。」声が出た。

フレッドの顔が強張る。

「雇止めの理由を聞いてもいいですか。業務は今までより効率的にこなせています。」

「会社が決めた事だ。」というのがディレクターの答え。

「そうですよ、メグさん。会社がそう決断したんです。」香港惑星からウェンディが同意する。まるで会社が不要なオフィスのパソコンを廃棄すると決めたような言い方だ。会社が、破れた靴下を縫わずに捨てた事もないオフィスアシスタントの「石川恵(めぐみ)」を、排除すると決めたのだ。

「会社の決断というのは分かっています。どうして会社がそう決めたのかを教えていただけますか。」私の尋ねる声が震えた。 

フレッドもウェンディも、ショックな通知のせいで私の声が詰まっているわけではないと分かっているかもしれない。私は吃音者だ。家族と話す時でさえ喉が閉鎖される事がある。

「理由を教えてください。異論はありませんので。」言葉とは裏腹に、内心はどんな答えが返されるのか恐ろしかった。

フレッドの険しい表情が、私が吃音を恐れる時みたいに怯えて見える。

「メグ、もう五回も言ったように、これは会社が決めた事だ。以上。」

ウェンディも、まるで私がこんな簡単な答えも理解できない幼児のようにフレッドに賛同する。もうUFOから彼女の声は聞こえなくなった。諦めるしかない。私は争いには耐えられない人間だ。

「フレッドさんの決断ですか、それとも美代さんが決めたのですか。」それなのに、私はイギリス人のディレクターに向き直っている。「ウェンディは香港にいるので、あなたか美代さんが決めた事ですよね。」閉ざされた喉から声が絞り出された。

「会社の決断だ。」とフレッドが繰り返す。

私がもっと自然に話せたら、彼はこの呪文を唱えるのを止めてくれるのだろうか。それとも前もって会社の弁護士に相談し、哀れな従業員に雇止めの理由を言わないよう助言を受けているのかしら。

「わかりました。後で美代さんに理由を伺います。」ついに私が言うと、二人とも静かに立ち上がり会議室を後にした。

信じられない。私は理由も告げられずに廃棄されるオフィスのパソコンなのだ。

気持ちの整理ができないうちに、昨年この会社を退職したサムが私を訪ねてきた。彼の暗灰色のコートが現れた時、暗い顔を見られないよう願う。サムはコートを脱いでも、その下にまた暗灰色を着ていた。彼が生まれ持つ曇った冬空の色だ。

「メグ、税控除の説明がまだ分からないんだ。」と心配性の男が言う。「送ってくれた書類によると、扶養が一人いると税金が高くなるんだよ。」

2018年の所得税源泉徴収票に関する疑問が全て解けるまで、きっと彼は眠れないのだろう。美代はサムの事を「命が懸かっているみたいに何でも大袈裟に騒ぐ」と言って避けているが、私はここのオフィスマネジャーである彼女とは別の見解を持つ。私は日本人でサムは中国系カナダ人、でも二人とも同じ暗灰色の国出身だ。

「それはおかしいですね。扶養していると税金は下がるはずです。」

私が所得税の月額を示した資料を見せると、彼はしばらくそれを読み、「計算の仕方はわかった。数字は正しいようだ。」と頷いた。「税務署に行って聞かないとだな。来週の月曜はオフィスにいますか?」

「あぁ、私ですか…」私の頭は正常に働いていないようで、ほとんど自動的に言葉が漏れ出た。「実はついさっき、4月以降の雇用が延長されないとディレクターに言われました。来週はまだここにいると思いますが、ちょっと…」喉がここで閉鎖される。

どうしてサムに話したのだろう。彼の税金の質問のせいで混乱した顔をしていると誤解してほしくなかったから。それか、多分この痛みを誰かに分かってほしかったから。

「何だって?」サムが舌打ちする。「おかしいよ。この会社はいつも良い従業員を首にするよな。」彼の陰鬱な顔に怒りが見える。暗灰色の国の人は悲しみを知っていた。

「ここに私を訪ねて来られるのは最後かもしれませんが、とりあえず税金の計算が合っていると分かって良かったです。」笑顔を作ろうとした。「税務署で話を聞いたら知らせて下さい。」

サムが分かった、と言う。「これまでいろいろありがとう。」

泣きたい気持ちになった。ここで従業員達を助ける仕事が好きだった。

***

自分のデスクに戻り、Gメールアカウントを開こうとした。三度目のパスワード入力時にエラーメッセージをよく読んでみる。

「一時間前にパスワードが変更されました。」

頭の中が真っ白になった。さっきディレクターに何かを指示されたITエンジニアのベンが、なぜ苛ついたように見えたのか分かった。頼まれたのはUFOの設定だけではなかったのだろう。ベンはこのオフィスの全コンピューターの管理を任されていて、私のGメールアカウントにも入る事ができた。

「Gメールが開けないです。誰かがパスワードを変えたみたい!」隣席の美代に訴える。この会社で多くの解雇を見てきた彼女の日焼けした顔は、青ざめる事がない。

「お昼食べに出よう。話があるから。」美代が言った。

私が月曜は弁当を持参していると知っているはずだが、きっと社内の人たちに聞かれたくない話があるのだろう。

美代は近くの大庄水産に私を連れ出すと、うどんセットを二つ注文した。テーブルの上にラップトップを広げ、私だけが管理している資料を全て明け渡すように言う。ほとんどの資料は共有フォルダに保存されていて、私専用のフォルダには二つだけファイルがあった。

「アフタスに一通メールを送らせてもらえますか。」と頼んでみた。二つのファイルを渡す前に頼まないといけない事だった。アフタスはこの会社で外注している社会保険・会計事務所だ。「お礼の挨拶がしたいです。」

誰か信頼できる人に、雇止めされる現状を伝えたかった。私の所属する会社ITCMは最近アフタスとの契約を解約すると決めたところだったが、私はこの外注会社を信用していた。

美代の許可を得て、彼女のGメールアカウントから挨拶メールを送信する。ただ、「私のメールアカウントが使用不可なので」という一文は削除するよう指示された。

ウェイターが来てうどんセットのトレイをテーブルに置いていった。空腹なのに全く食欲はない。

「恵ちゃんの雇用契約を更新しないとフレッドから昨日の夜聞いて、すごいショックだった。止めようとしたよ。新しいアシスタントに仕事を教えるのに最低3ヶ月は必要だって書いた。」美代がすまなそうにスマホを見せてくる。彼女がディレクターに訴えたメールだったが、気持ちはこめられていなかった。

「恵ちゃん、先週末フレッドか香港と何か話した?…話してないの?あの人達が何を考えてるんだか、本当わからない。」

聞き慣れた彼女のディレクターへの批判も今は不誠実に聞こえる。フレッドを悪く言い、自分は雇止めの決断に関与していないと防衛されるほど、私の疑いは強くなる。私の雇止め自体に反対してほしかったから、新しいアシスタントの研修期間が短いという文句にも傷ついた。

「うそ!」

今しがたスマホが受信した何かを読んで、美代が息を呑む。「フレッドが、恵ちゃんは明日から自宅で勤務するようにと言ってる。もうオフィスに来ないでいいって。」

うどんが箸から滑り落ちた。

「で、でも、ヘザーに見せたりするものがあるし…」顔面にパンチを食らったみたいに、どもる。私がGメールを使えないようにして、次はオフィスにも入れないようにするなんて、会社は一体何がしたいのだろう。

「自宅からメールで説明するように努めますが、大変だと思います。」

美代には同情心が無いから、感情的になってはいけない。彼女が今恐れているのは、明日からオフィスに山積みになるだろう自身の業務量だ。韓国出身のヘザーはセールスチームの新人だが、美代は彼女が日本語を上手に話す事しか知らない。

「絶対大変だよ。何でフレッドは嫌がらせをするんだろうね。」美代が深くため息をつく。「恵ちゃんが必要だと知ってるはずなのに。」

「もしかして、本当に嫌がらせかもしれませんよ。」彼女を味方にしようと試みた。「きっと本当は、フレッドさんは美代さんを排除したいんですよ。それで私を先に追い出して次に美代さんに行くつもりなんです!」

隣のテーブルの男性にちらと見られたが、自分を抑えられなかった。

「これは間違いなく陰謀です。ずっと前から計画されていたんでしょう。美代さん、こんな嫌がらせをされて平気なのですか。一人しかいないアシスタントを理不尽に解雇されて、何もしないつもりですか。」もうすっかり感情的だ。

美代には権力がある。彼女の名前は会社の登記簿謄本、職業紹介許可証、オフィス賃貸契約書、至る所にあった。取締役のうち日本人で日本語を話すのは美代だけだから、彼女無しではITCM、ITコマースマネジメント社は経営が難しいだろう。

「わかってる。だからフレッドと香港にすごく怒ってるよ。でも、私に何ができるっていうの?」というのが、会社を動かせるほどの権力者の答えだった。

***

オフィスに戻ると、皆が私の背中に張られた「有罪」の貼紙を見ているような気がする。落ち着いて今やるべき事をするのだと自分に言い聞かせ、デスクを片付け始めた。

「これがキャビネットの鍵です。派遣社員の毎月の経費領収書はこの封筒に入っています。」今日中に美代に全て伝えなければならない。「源泉徴収票はこの箱の中です。アリバシステムについてはシンシアに聞いて下さい。就労ビザを申請する時は、この青いファイルを見て下さい…」

美代の丸い目に何かが光る。鼻をすするような音も聞こえた。フレッドが私たちのデスクの側に来ると、彼女のすすり泣きは止まる。きっと何かのアレルギーだろう。

「すごい冷静だよな…」と同僚たちが小声で話すのが耳に入ってきた。自意識過剰に、きっと私の事を言っているのだろうと思う。「こんな突然の通知を受けた後でさ…」

私の態度を褒めているように聞こえる。なら一層落ち着いた姿を見せてやろう。

ふと、スカイプのアカウントがまだ使えるのに気づいた。どういうわけか私のスカイプのパスワードは変更されていない。急いで香港オフィスにいる同僚のシンシアにメッセージを書く。

「メグ退職するの?すごく悲しい。どこか良い会社を見つけたの?」シンシアから返事がきた。

「私も悲しいけど、会社の決めた事に従わないと…」

「え、メグが決めた事じゃないの?」

「違う。私が決めるわけないよ。こんなに熱心に働いてきたのに―」

「でも、どうして?」

「今何してるの?」美代が邪魔してきた。「ウェンディが聞いてる。」

「スカイプでシンシアとチャットしています。」キーを打ち続けながら返事した。

「フレッドは理由を教えてくれなかったけど、大体わかるよ。ずっと会社に言い続けてきた事があるから―」

フレッドが再び美代の所に来て何か囁いている。この重役二人は私が毎週火曜の朝に古い歯ブラシで会社のキッチンの排水溝を掃除しているのも知らないのに、今日だけ私の一挙一動に注意を払ってきて不気味だ。

「恵ちゃん、ウェンディがシンシアの隣にいるかもしれないよ。チャット止めた方がいい。」美代が指示してくる。「ウェンディが、恵ちゃんが今何してるか知りたがってるよ。」

「わかりました。」

私が会社に何を言い続けたのかと尋ねるシンシアに返事を書いていた手を止めた。代わりに香港のHR部長のアバターをクリックする。「今ウェンディに何をしているか伝えます。」

「ウェンディ、これまでITCMで働かせていただき本当にありがとうございました。」と彼女にもメッセージを送る。最終日に同僚に挨拶することは罪なのだろうか。

「今まで一生懸命働いてくれて感謝していますよ、メグさん。」返信がきた。

偽善の言葉でも構わない。熱意を持って勤めてきた労働者がお礼を言われても、罰は当たらないはず。

リクルーターたちの電話の邪魔にならないように裁断機を会議室に持ち出した。そこで不要な書類を処分していると、フレッドがやって来て尋ねる。

「何をしているんだ。」

ITCM取締役たちの今日の課題は「メグは何をしているか」に違いない。

「個人情報を含んだ不要な書類を廃棄しています。」と答えた。何か悪い事だろうか。

ディレクターは口を開けたが何も言わなかった。何故そんなに怯えた顔をしているのか解らない。彼は気に入らない社員を蹴り出すのを楽しんでいると美代は言っていたが、今は全然楽しそうに見えない。

18時になると、セールス社員やITエンジニアたちは隠された爆弾から逃げるようにオフィスを後にした。空の室内で私は所持品を袋に詰め込む。手つかずの今日の弁当、マグカップ、毛布、眼鏡メース、傘、それとアナの写真。

美代と二人でオフィスを出る時、フレッドがディレクター室から「美代、また明日」と声をかける。私には何も言わなかった。

2019年2月19日

今朝起きなかったのはオフィスに行く必要がないからではない。昨夜は一睡もしなかった。37年もの付き合いだから、この頑固な脳が時々こうして休息を拒むのをよく知っている。だが強健な脳と違い私の体は脆弱だった。

「喉が痛いの?ストレスからだね。その会社、本当に腹立つ!」妹の梨花からのメールが怒りで煮立っている。昨夜電話で話した時はむしろ落ち着いていたのだが。

「恵、メール読んだよ。今どこにいるの?家で安全にしてる?」

昨夜梨花があまりに心配そうだから、本当はまだ古いアパートの自分の部屋に向かう路地を歩いていたのだが、家にいるふりをした。

「それなら良かった。家にいるなら。」妹が繰り返す。「恵の会社って、その劣悪な所でしょう。そんな酷い所から出られたと聞いて、ほっとしたよ。」

妹には何度か私の会社ITCMの話をした事があるから、香港の本社で「不従順な」社員が何をされたかきっとまだ覚えているのだろう。「その社員、オフィス近くのカフェで解雇を言い渡された後オフィスに戻ってみると、ドアがロックされてて彼の所持品が全部廊下に出されてたんだって。」美代は愉快なゴシップのように言っていた。

「うん、自分の物は全部家に持ち帰ったよ。アナの写真も。」と私は妹を安心させる。

「それは良かった。今日映画を観たんだけどね。不正をしている会社の重役たちに立ち向かう誠実な社員が殺されるんだよ。酷かった。」

私はアパートに駆け込み、ドアをしっかり施錠した。「それは酷い映画だね。」

梨花は雇止めに関して会社と争わないよう私に約束させ、「大事な命と引き換えにする価値はないよ。」と断言して電話を切った。

ところが今朝届いた妹の怒りのメールは、東京で一番寒いこの時期に私の体を熱くする。昨夜の恐れを忘れて、美代に今日からの在宅勤務と来月の有給取得の通知を書面でくれるようメールで頼んだ。「雇止めの理由も文書で送ってください。」と大胆に付け加える。

「後で送る。」と返事がきた。

暖房を入れてココアのカップを座卓に置き、美代からの質問に答えるべく自分の小さなラップトップに向き合う。彼女の途絶えぬ質問は主に1月の給与計算についてだった。電話さえかかってきて、まるで昨日何事も起きなかったかのように二人で話をした。私の様子を気遣う言葉は一言もない。

「ああ、そうだ。」経理の話をいったん止めて、美代が言う。「言い忘れるところだったけど、通勤定期をキャンセルしてね。」

当然のことだ。会社は不要な経費を出したくない。そうしたら、私はもう「本当に」オフィスに行かないのか―。

急に気持ち悪くなりトイレで嘔吐した。美代から何か優しい言葉でもかけられると期待していたのだろうか。フレッドが電話してきて、雇止めの決断は間違っていたから取り消すと謝罪するのを待っていたのか。目を覚ませ、恵!

夕方、定期券をキャンセルしに出かけた。

「もうこの定期は使わないので―」と力を振り絞ってこの悲しい依頼をしたが、荻窪駅窓口の受付員は機械的に払戻額を計算して私に渡す。

「はいどうぞ。スイカから情報を削除しましたよ。」

文字が消し去られた空のカードを見てショックが隠せなかった。暗い音楽が周囲を包み込む。この受付員さん、通勤定期取り消しの裏にある悲劇を想像できないだろうか。私の辛さを汲み取って、何故悲しんでいるのか優しく聞いてきたりしないかしら。

「どうかしましたか。」まるで毎日定期券をキャンセルしているというふうに、彼が尋ねてくる。

「いいえ、」と弱弱しく微笑んだ。「ありがとうございました。」

メロドラマ風のムードと共に暗い音楽も止まった。

***

2019年2月20日

在宅でも真面目な社員だと示そうと9時前に「勤務の準備ができています!」と美代にメールを書いたが、すぐに彼女は10時半を過ぎないと出社しないのを思い出す。上司よりも先に妹からメールがきた。

「在宅勤務とか有給の通知、まだ書面でもらっていないの?」

梨花は私の会社を信用していない。「恵の頼みを無視して自分達の業務の質問ばかりしてくるなんて、都合がいいね。」

会社が私を良いように利用しているのは分かっている。

「恵の上司、本当に今月分の給与を払ってくれるの?」と疑わしそうに聞かれたが、実は私も同じ疑問を持っていた。ロナルド・ペリーがITCM退職後に最後の給与をもらえなかったのを覚えている。

「ロナルドから最後の給与について連絡がきたら、俺に直接電話するように伝えて。」と私は2017年の9月にディレクターに言われた。だからロナルドからメールを受け取った時、こう返信した。

「最終給与の振り込みは保留しています。フレッドさんと直接お話ください。」

ロナルドはフレッドに連絡をしなかったようで、彼の給与は未だに経理簿の保留リストに載っている。外注のアフタスから月給は「毎月」従業員に支払われなければならないと警告を受けたが、フレッドは振り込みを許可しなかった。

「ロナルドが著作権を無視してあるウェブサイトから画像を取ったせいで、会社は今問題を抱えているんだ。あいつはITCMに大きな借金がある。」というのがディレクターの理由だ。

「給与は給与、貸付金は貸付金。給与から貸付金が引かれるという同意がなされていない限り、この二つを混同させてはいけません。」が、アフタスのアドバイス。

だからフレッドはアフタスが嫌いなのだ。

私が業務上重要なミスをしたか何かの理由で、私の最終給与を支払わないようフレッドが美代に指示する姿が思い浮かんでくる。

「心配になってきた。美代さんにもう一度頼んでみる。」と妹に返事する。

「そうだよ。書面の通知をもらうまで質問に答えちゃだめ。」梨花が言い張る。「向こうが急に恵を追い出したんだ。今頃どうして仕事の事なんて聞いてくるの?恵はなめられ過ぎてるよ!」

ココアをすすり、ゆっくりとカップを座卓に置いた。その通りだ。私は捨てられて、利用されて、なめられている…

ちょうど美代からメールが届き、スカイプのHRアカウントのパスワードを聞いてきた。水曜はスカイプの週例会議があるから一番嫌いだった。

「先に在宅勤務の指示を書面で送ってくれませんか。」パスワードを教える代わりにそう書いた。「メールに一文書くだけでいいので、1分で済みますよね。」

彼女達が最後には個人アカウントから会議に参加できるのは分かっているし。

「今日はヘザーにとって初めての週例会議だから、HRの皆に紹介したいの。パスワードを教えて。」美代はまるで私の頼みを聞かなかったかのように繰り返す。

彼女、完全に私を見下している!頬が熱くなった。これ以上馬鹿にされてはいけない!

会議が始まる11時になると、美代から冷ややかなメールが届いた。

「こっちで私達がどんなに大変かも知らないで、自分勝手な頼みを繰り返してきて、恵ちゃんには失望しました。指示するまで何もしなくていいから。」

不思議と「自分勝手」と呼ばれても動じなかった。この社会で自分を抑えてばかりいる事にむしろ嫌気がさしていた。気がかりなのは会社と争わないといけないかもしれないという事。もし給与が支払われなければ法的な助けを求めるしかなくなる。これは金銭ではなく自己の権利と尊厳の問題なのだ。考えただけで胃をつねられるような憂鬱さを覚える。

インターネットで東京の労働者組合を探して電話をかけた。

「会社を信用できないので、書面での通知が欲しかったのです。でも上司を怒らせてしまった今、2月と3月の給与が支払われないかもと心配しています。」と状況を説明した。「大事にしたくないのですが、どうしたらいいでしょうか。」

「ご心配、よくわかります。特に、他の社員の最後の給与が支払われなかったのを過去に見ていますからね。」組合の相談員は同情的だった。「でも争いを避けたいとの事ですので、今のところは会社から聞かれた事に全て答えるのが良いですよ。」とアドバイスをくれた。

「はい、そうするべきだと思います。」少し前、梨花の真逆の意見に同意したように私は頷く。不安が頂点に達すると、私は6歳の子供のように周囲に流されやすくなるのだ。

「お話を伺う限り、その会社は尊敬できませんね。でも大事にする必要はないですよ。会社と協調するよう努めましょうか。」

「わかりました。」

私は平和主義者で、「協調」はお手の物だ。

「最後の給与がちゃんと支払われなかったら、またご連絡下さい。私は生田と申します。」

電話が終わるとすぐ、協調するために美代にメールを書いた。

「美代さん、さっきは申し訳ありませんでした。自分勝手でした。美代さんやヘザーを困らせるつもりはなかったのですが―」

「大丈夫だよ。こっちはいろいろ大変で、連続で管理者会議もあるし、すごく疲れちゃった。恵ちゃんにも少し休憩してほしいんだ。」と美代が返信してきた。

少し休憩?

私にとってはまだ長い不眠不休の闘いの二日目なのに―。座卓の上に頭を寝かせ、脳が少し休んでくれるよう願う。1分もしないうちに覚醒して両目が開いた。

誰か、少し休憩させてくれないだろうか。

2019年2月21日

今誰がオフィスのポトスに水をやっているのだろう。

「これ、メグさんのGメールの新しいパスワードです。」空想の中の電話でベンが言う。「みんな待っているのでオフィスに戻ってきて下さい。ポトスも待っています。美代さんは水をやらないから。」

昼に地元の病院に行って喉が痛いと伝えると、最近寒いから風邪をひいたのだと言われ薬を処方される。眠れないと相談したかったが喉が閉鎖された。助けを求める言葉はいつも難発性だ。

今日の美代からの質問は主に住民税についてだった。

「どうしてアレックス、理恵、サイモンの住民税は給与から引かれないの?」素朴に聞いてくる。

「支払いが無いからと思います。」と私は答える。「今期分を全額支払い済みか、昨年収入がなかった人は課税されません。」

それか徴収票がまだオフィスに届いていないのかもしれない。オフィスにいたら、その人たちの記録を調べ、自治体に問い合わせて確認できるのに。もどかしい。

今喉が痛いのがむしろ有難く思える。私用の携帯に電話せずメールで連絡をくれるよう美代に頼めたから。冗談ではなく彼女の声を聴いたらまた嘔吐するかもしれなかった。

遅い昼食後、薬を飲んで眠ろうとした。美代は昼休みで数時間戻らないし。

「眠れない。」浅い夢の中で、不安そうな声が言う。

11歳の恵が薄暗いリビングの戸の側にパジャマ姿で立っている。父の布団の上の時計は朝の4時を指していた。

「恵、まだ起きるには早いよ。」

テレビの方から父が振り向いた。父は遅くまで起きてスポーツ番組を見ていたようだから、日曜の朝に違いない。「お父さんはもう寝るから恵も自分の布団に戻りなさい。」

息をするのと同じくらい簡単な事みたいに、「寝る」という父が信じられない。

「でも眠れないの、お父さん。」と私は繰り返す。

昨夜9時から眠ろうとしているのだ。もしこのまま永遠に眠れなかったら死ぬのではないかと恐ろしくて、その恐怖が一層眠りを妨げていた。

「眠れないなら、ただ横になって目を閉じていたらいいんだよ。」と父が教える。「体だけ休めたらいい。わかったかい?」

わかった。体だけ休める―

頭を上げて、暖房が自動的に切れているのを見た。16時前だ。ようやく座卓で一時間ほど眠ったようだった。メールをチェックする前にベランダから冷え切った洗濯物を取り込む。西の空に夕焼けが見えたから、明日も晴れるに違いない。

***

2019年2月22日

昨夜は4時間眠れた。フレッドの敵意に満ちた顔は夢に現れなかったが、もう彼の笑顔は覚えていない。今となっては笑い話だけれど、面接で初めてフレッドに会った時は即座に信頼してしまった。前の職場にいた、Tを含む言葉を発する時にどもるフレッドを思い起こした。そのフレッドは心の優しい天才ソフトウェア開発者だったから。

美代からの質問が途切れると、インターネットで仕事を探し始める。貯金があるからすぐに生活に困るわけではないが、いつまでも自己憐憫に浸ってはいられない。

今日は一週間で一番好きな金曜日だ。週末前だからではなく、近所のスポーツクラブでバレエのクラスに参加しているからだった。でも今日はバレエに行く代わりに履歴書を登録しにミシェル・レインに行くつもりだ。

ミシェル・レインは外資系企業を専門に扱う大手の職業紹介会社だ。リクルーターのハナがITCMを退職してそこに就職したから、その会社名を知っていた。ITCMの十倍くらい広いミシェル・レインのオフィス入口で待っていると、なんとハナが廊下から姿を現した。マーフィーの法則だ。驚いてはいけない。

「メグさん!」

ハナは私を見て驚いた様子だ。「ここで何しているの?」

「ハナ!元気そうだね。実は…仕事を探してるんだ。」一気に言った。

二人でしばらく立ち話をしていると、自分は良い職場を探しているただの求職者なのだという気がした。誰も私が突然職を失い必死に仕事を探していると知らない。そうだ、誤った印象を持たれるだろうから、前職を追われたとは決して言うまい。だが自分から退職を決めたと言ったら無責任な人間と思われるかもしれない。ジレンマだ。

「そうしたら、3月31日が今の職場の最終日ですね。こちらはもう確定していますか。」私の面談者の親切そうな若い女性が、面談室で尋ねる。

「はい。上司とそう決めました。」答えながら、罪悪感を覚えた。

「わかりました。では、なぜITCM JAPANを退職したいのか理由を聞かせていただけますか。」

退職を決めたのは自分ではないが、本当の事を話せるからこの質問には難なく答えられた。「会社のマネージャー達と社員達との間で、ストレスの溜まる立場にいました。」英語が急に流暢になる。ほんの時たま、より強い感情のせいで吃音をあまり意識しなくなる時があった。

「会社の従業員に対する不当な扱いに耐えられませんでした。従業員は会社の商売道具ではないと何度か提言しましたが、聞き入れられませんでした。」

面談者が頷くのを見て励まされる。「それで、退職を決めました。」

自分は何て嘘つきなのだろう。本当は、諦めて退職しようなんて思わなかったのに。

神谷町にあるミシェル・レインのオフィスを出ると、凍りつくような夜が既に高層ビルの上に被さっていた。私には一筋の光も照らさないまま、快晴の日がまた終わろうとしている。

 

2019年2月23日

冴え過ぎた脳が自己崩壊しないよう風邪薬が休ませてくれる。薬中になる気持ちがわかる。

所属している小さな合唱団の奈津に、喉が痛いから今日の練習は休むとメールした。

「恵さん、今日は来られなくて残念です。早く喉が治るといいですね。」奈津からの返信文を見て突然彼女が恋しくなった。弱っていると人の優しさを渇望する。

でもまだ落ち着かない。何百万人から同情されたとしても胸の中の重い靄が晴れない。モヤモヤがだんだん濃くなって体の内側から外へ圧迫してきている。空の時間が悲観的な妄想を暴走させる。今朝ヘレナから届いたメールを思い出した。ヘレナはフィリピン出身のITCMで最年少のリクルーターだ。

「大変でしょうね、メグさん。仕事探しで何か力になれる事があったら言って下さい。」

申し出をありがたいと思うのと同時に、ITCMに仕事を紹介されると考えると恐ろしかった。フレッドがこのメールをヘレナに送らせたのだろうか。ジムにしたのと同じように、私の事も自分の商売の道具にしようとしているのか。

フレッドはジムがリクルーターとして業績を上げなかったとして、去年の9月に彼を雇止めした。他のリクルーター達の話によると、ジムがITエンジニアの手伝いでオフィスを留守中に上司のカレンが彼の担当する求職者に連絡し仕事を紹介したとして、最近彼は会社に苦情を言ったという。(求職者の就職が決まれば、紹介した社員がITCMから報酬をもらえるのだ。)リクルーター達が香港本社と面談をした時も、ジムがカレンに対して一番批判的だったそうだ。

「ジムは私たちを代表して意見してくれたんです。」と、その面談の後リクルーターの由美が言っていた。「彼に何も起こらないといいけど…」

実は彼が雇止めされる一週間前から、おかしな事が起こり始めていた。フレッドがジムの隣の席に座り、突然厳しい指導を始めたのだ。指導は毎日、一週間続いた。

「いいかジム、これはお前がやらないといけなかった仕事だぞ。きちんとできてないじゃないか!」

小さなオフィス内の皆が銅像と化し、私もフレッドの罵声を無視して自分の仕事に集中しようと努めた。恐らくフレッドはジムを昇進させるつもりで、会社が若い彼の二年目の活躍にどれほど期待しているかを皆に示したいのだと考えた。

ジムの契約があっけなく終了した時は、フレッドの最近の指導は何だったのかと理解に苦しんだ。わずか一週間の指導の直後に従業員の業務改善を期待する事はできない。あれは単にジムの解雇を正当化するためのパフォーマンスだったのだろうか。だが、この小さな会社でディレクターの決定に誰が異論を唱えられたというのだろう。私達にできるのは、せいぜい打ちひしがれたジムを励ます事くらいだった。

ところがジムが去って2ヶ月後、フレッドは顧客から人材紹介の依頼を受け、ジムにリクルーターとして顧客先で勤務しないかと勧誘した。彼はリクルーターとして「業績をあげなかった」と自らが解雇したばかりの従業員を、顧客に「有能なリクルーターがいる」と紹介したのだろうか。「ジムがカレンを批判したから雇止めされたのは明らか。彼は申し出を断るだろう。ITCMは虫が良すぎる。」とオフィス内では噂された。

結局ジムはITCMの申し出を受ける決断をした。「リクルーターとしてのキャリアを積みたい。」と、引っ越し業者をパートタイムで手伝っていた彼は説明した。彼の給与もITCMの利益も上がった。

ITCMでは、従業員はこうして単純に売買されるのだ。

アパートの階下から数人の笑い声が聞こえてきた。そこの住人は毎晩のように友達と笑っているから、幸せな人に違いない。私も被害妄想を止めて幸せになりたい。

YouTubeでコメディーを見てみたが、全く笑えなかった。幸せになるのをすぐ諦めてYouTubeを閉じると、デスクトップにスカイプ画面が現れる。アメリカの友人、キムからメッセージが届いていた。彼女と最後に話したのは2月16日で、皮肉にも話題はITCMのマネージャー達だった。美代の「どんなに休んでもほとんど減らない有給休暇日数」の話をしていて、「典型的なビジネス幹部の特権だね。」とキムが笑っている。

「キム、聞いて―」

きっとここでフレッドと美代の悪口を言っていたから処罰されたのだと思いながら、キムに書き始める。ベンは実は私用のスカイプアカウントもハッキングできるのかもしれない。

「今週の月曜にフレッドに呼ばれて、雇用契約が更新されないと言われたよ…」

書き出したら、胸の中にある灰色の靄が指先を通して流出し始めた。雇用主を煩わした厄介者だと思われるから、本当はこの話は誰にもしたくなかった。首になった人は日本では決して重宝されない。でもこのアメリカの友人は、そんな目で私を見ないと分かっていた。

***

2019年2月24日

キムがすぐ励ましの返事をくれた。

「会社は雇止めの理由を言いたがらないんだね。でもメグには知る権利があると思うよ。」

会議室でフレッドに震え声で尋ねたのを思い起こす。妙な事に、フレッドはこの質問に私より怯えているようだった。強力な殺虫剤を振りかけてもまだ生きている害虫を恐れるように、彼の青い目が私を見ていた。

「私だったら発狂してる。こういう時に冷静ではいられないよ。メグはよく取り乱さずにいられて、すごい。」

キムは私がどれほど怒っているか、どれだけ悔しい思いをし打ちのめされたか分かっている。だからこうして私を褒めるのだ。彼女のように理解してくれる人が欲しかった。

亜実にも話してみようと彼女のアバターをクリックする。亜実は北海道に住む古い友人だ。私が会社で首になろうと昇進しようと、亜実は気にしないはずだから。

 

2019年2月25日

再三頼んでいるのに、美代は今のところ3月の有給休暇の通知しか発行してくれていない。在宅勤務の指示や雇止めの理由はと聞いても、「恵ちゃんの2月分の給与、ちゃんと払われるようにするから。」と答えるだけ。永久にこうしてごまかされるような気がする。恐らく会社は私の雇止めの公平な理由を見つけられず、告知の翌日から突然在宅勤務にさせるのも道徳的でないと分かっているから、証拠となる書面での通知を発行したくないのだろう。

Gメールの事も心配だ。私はもうアクセスできないのに、まだ会社の私のアカウントは生きているらしい。元ITCMリクルーターの由美がテスト送信してくれた。

「恵さん宛のメールは全部ヘザーに転送されているようですよ。」と由美が言う。「ヘザーから返信を受け取りました。」

彼女によると、ヘザーの返信に私の事はいっさい書かれていないようだ。ITCM在職中は派遣先の社員達と毎日メールをやり取りしていたから、皆私に何が起きたのだろうと不思議がっているに違いない。

その午後、韓国の会社ゴールデンボックスと電話面接をした。吃音者として電話は苦手なのだが、この会社の本社は韓国にあるから選択の余地が無い。

「あなたはとても信頼できそうな人で、英語も上手ですね。」会話の最後に面接官が言った言葉は意外だった。

すぐさま韓国での新しい生活を思い描き始める。これまでインチョン空港しか訪ねた事がなかったが、韓国は自国のような気がした。人は親切で食べ物は美味しく、言語もさほど難しくないと聞く。2年後には三か国語を話せるようになって帰国し、ヘザーを驚かせてやろう。

***

2019年2月26日

美代からのメールが質問というより愚痴のようになってきている。

「超忙しい。ヘザーはまだ何もできないし、先週の金曜は遅くまで残業したよ。」

こういうメッセージにどう答えるべきか、しばらく考えてしまう。

「私がオフィスに行って17時までに全部仕事を終えてあげますよ。でも、あなた方がそうさせてくれないんですよね。」と胸の内で叫んでいる。

「お疲れ様です。」というのが実際の返信文だ。

今日も凍り付くような晴れ。梅の花のほのかな香りが、窓をピンク色に塗ろうとして部屋の中まで入り込んでくる。でも私は初春を見るのを拒んで黒い雨戸を被せてしまう。2月18日以降私の全世界となった自分の部屋を見回した。小さな本棚、座卓、小箪笥にベッド、家具はこの四つしかない。台所は三平方キロほどで、流し台の横に一つ扉の冷蔵庫、その上に使っていない電子レンジが置いてある。私はシンプルな生活が好きだから、テレビも洗濯機も、炊飯器、電気ポット、掃除機も持っていなかった。

見渡すと、冷蔵庫だけがウンウン音を立てながらあくせく動いている。中に何か冷やす物が入っている限り冷蔵庫は休む事ができない。エアコンやヘアドライヤーが今電源を切られているのに、少し不公平ではないか。

数か月前に銀行の待合席で「冷蔵庫無しの生活」を紹介した雑誌記事を読んだことがあった。電気製品を手放す事に加え、色とりどりの食べ物が入ったガラス瓶の写真に魅了された。緑の植物の隣でとても清楚に見えたから。ふと鮮明なビジョンが頭に浮かぶ。冷蔵庫を売って、代わりに小さな食器棚を買おう。今後は棚の中のガラス瓶に食べ物を貯蔵するのだ。

「いちごジャムか何かの空瓶ある?」梨花に電話した。

「ないけどお母さんが持ってるかもよ。どうして?」妹が尋ねる。

既にこの計画にワクワクしてきた。でもまだ誰にも明かすまい。

***

2019年2月27日

履歴書を送った会社から「不採用通知」が届いてもさほど傷つかない。だがITCMを追い出されて以来、自分をゴミ屑のように感じる。きっと私など誰も欲しくないのだ。

「申し訳ありませんが、人事として3年以上のご経験がある方を募集しています。」と通知に書かれている。尤もだ。2年半の間ITCMのHR業務を通して学んだ事を書き留めたノートを見やる。2月18日以来このノートには触れていない。

今朝は特に惨めな気分だ。少し散歩しようと出かけ、結局何時間も歩き続けた。妹とよく買い物をする吉祥寺にたどり着いたが、今日は気持ちが高揚しない。実際、商店街入り口で宣伝している人からポケットティッシュを受け取っただけで、どこの店にも入らず踵を返した。ティッシュに付いた不動産の広告に「What a Happy Life!」とあるのを見て、なぜかひどく不幸な気持ちになる。

家に戻って料理を始めた時だった。小さな黒い点が視界の隅を走り去った。すぐにその点が走った白い壁の方を見たが、何もない。2月にコバエがいるはずはないし。そうだ、ついに飛蚊症になったのだ!

何か月も仕事が見つからず、うつ病と飛蚊症を患う自分の姿を思い描く。吃音は悪化し次第に外に出るのが怖くなってくる。外へ出て面接を受けなければ就職する事はできない。溝に落ち入り抜け出せない!ついに梨花が私が前職を解雇された事を両親に打ち明けると、二人は愕然とするだろう。

「どうして恵は上司に疎まれて首になるまで、その何だかわからない提言を止めなかったの?」と母は嘆き、「恵は部屋に閉じこもっていないで、次の会社を探す努力をしたらどうだ?その年で面接が怖いはずはなかろうに。」と父はもどかしがる。

こうなると私は自殺を考えるか、二人から離れたどこか遠くへ逃げないといけない。両親の「心配」には耐えられなかった。でもまだ死にたくないから、多分20代の頃にしたようにニュージーランドに行って田舎のホテルで清掃員になるだろう。今回は誰にもどこへ行くか告げず、死ぬまでもう二度と家族とは会うまい…

小さな黒い物が夕飯の皿の上を飛ぶ。本当にコバエだった!

今日は特別温かくはないが、とにかく私の部屋にハエがいた。結局飛蚊症ではなかったみたい。一瞬にして、将来のニュージーランドでの生活が頭から消え去った。

***

2019年2月28日

韓国のゴールデンボックス社が私を採用したいと言ってきた。そのメールを読んだら急に希望の光が見えてきて、自分を傷つけた人に対しても優しい気持ちになれた。

今日はITCMでの最終勤務日だから、「今までお世話になりました。」と美代にメールで礼を言う。「明日からは休暇に入りますが、業務で何か質問があれば聞いてください。」

もし韓国の会社で働く事になれば総務の経験を積めるから、きっとすぐにITCMを忘れられる。

「ありがとう、恵ちゃん。」と上司が返信してきた。「ヘザーはよくやってくれてるよ。ただ、一番忙しい4月にアメリカ旅行を予約してるんだけどね―」

美代は私が3月に計画していた台湾旅行の事を覚えていないのだろうか。

「ヘザーはセールスチームで成績が悪かったから解雇されると思ったんだって。それで2週間のアメリカツアーを予約しちゃってるのよ!」と彼女は軽々と続ける。

私は仕事熱心で効率良くこなしていたから、解雇されるとは思わなかった。それで、私にとって今まで最長の休暇となる3日間の台湾旅行を予約していたが、雇止めを言い渡された後気落ちしてキャンセルした。その旅行のために新しく作ったパスポートを思い出し、悲しみと怒りがジワジワと戻って来る。だめだ。今は恨みに浸る時ではない!

メールボックスを閉じ、ジモティーのウェブサイトを開いた。ここに冷蔵庫と電子レンジの中古販売の広告を載せるつもりだ。自分が今まで大切に使ってきた物を誰かが欲しがっていると想像するのは楽しい。小さい頃は持っている物全てに名前を付けていた。ぬいぐるみ、枕、箸や靴下、鉛筆…箪笥の引き出しにさえ名前を付けた。

「大丈夫、次の持ち主もきっと優しい人だよ。」電子レンジと冷蔵庫を布で拭きながら、彼らにそう言った。

 

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