第一章 2019年3月-上

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2019年3月1日

新しい月が始まっても、まだやるせない怒りが何かを燃やしたがっている。浅い夢の中でゴールデンボックス社に実は前職を自主退職したわけではないと告白し、韓国の面接官の顔が曇るのを見た。

「ではあなたの上司が、あなたの雇用契約を更新しないと決めたのですね?」

「違う!」頭蓋骨の中で脳みそが動くほど私は首を振る。「全て間違ってる!どうして私が面接で嘘をつかないといけないの?」と喉が張り裂けるほど叫ぶ。「何も悪い事はしていない。いつも一生懸命働いてきたのに。どうして解雇されたの?どうして?」

汗だくになってベッドから起き上がった。

いいか恵、まず朝食を取って洗濯をするのだ。洗濯物をベランダに干したら、ココアを入れて座卓に落ち着き、それから―。 4ヶ月前、この同じプロセスを繰り返し自分に言い聞かせた。飼っていた犬、アナがもう存在しない現実をどう生きたらいいか分からなかった時、単純に頭の中に「まず朝食を取り、洗濯をしてベランダに干し…」と組み込んだ。

アナが去った時と違い、今の自分は泣いたり塞ぎ込んだりしていない。頭はむしろ狂乱状態だから、きっと世界の果てまで歩き続けられる。高校時代の先生がこう言ったのを覚えている。「人は負けた時に泣くのではなく、完全に諦めた時に泣くのだ。」たぶん、私はまだ諦めていないのだろう。

夕方まで座卓に向かい仕事を探した。韓国の会社が前向きな返事をくれたものの、安心できなかった。ネルソンに起きた事が忘れられない。

金曜だがスポーツクラブに行ってバレエを楽しむ気にはなれず、「今日もジムには行かないんだ。」とスカイプで亜実に言う。「次の就職先に落ち着くまでは何も楽しい事をしたくない。」

「先生が心配してるよ。」と亜実から返事がきた。「恵ちゃん、どうしたんだろうと思ってるよ。」

彼女はいつも私のチアリーダーだ。

亜実の言う通りだと良いと願いながら、「先生は私がいなくても気づかないよ。」と書く。「三十人近くの生徒がクラスに参加しているし、私はまだ新しいから。先生は私の存在すら覚えてないよ。」

「そうは思わないけど。」と亜実。

彼女は私がバレエのクラス一の劣等生だと知っている。体はすごく固いし、ダンスの経験もリズム感もない。両親の家でグランバッツマンの練習をしていたら、父に空手の蹴りを習い始めたのかと聞かれた。それでも亜実は、私が他の生徒を懸命に真似る姿を見て先生は嬉しいはずだと言い張る。

「先生はどんなに下手でも一生懸命な子が好きなものだよ。」亜実が言う。「来週はジムに行きなね。先生が待ってるよ。」

先生が待ってる、のかな… こんな非現実的な考えが、私に魔法をかけて前を向かせてくれる。

***

2019年3月2日

週末は求人広告が更新されない。同じ会社の業務内容を何百回も読むのは止めて出かける事にする。

西友荻窪店は週末の買い物客で混んでいた。冷蔵庫の電源を切って以来、一階の乾物売り場を中心に足を運んでいる。乾麺、餅、乾燥昆布、蜂蜜、マメの缶詰やビスケット…レジの店員に大地震か何かに備えていると思われそう。

食品を買った後ペットショップの小桜インコを見に6階に上がり、捕らえられた可哀そうな小鳥たちに癒される。ここに立ち、インコの綺麗な緑色を何時間でも見ていられた。

家族連れがペットたちを見に来ると、私はいそいそと立ち去る。中年の孤独な無職女性だから、幸せそうな家族連れを避けたいと感じるのかしら。無職の経験は初めてではないが、今回はあまりに突然で空虚な毎日に対する準備ができていなかった。

雇止めを前もって予想する事はできたのだろうか。

この無意味な質問を今まで何千回も自分にぶつけてきた。去年の10月、フレッドとセールスマネジャーのカレンに呼ばれ、ジム宛に電話してきた求職者への返答の仕方を指導されたのを思い出す。

「いや、ジムがもう会社にいないとは言うな。」というフレッドの指示。

「他のリクルーターが対応するとだけ答えるの。いい?」カレンがいつもの偉ぶった口調で付け加えた。

「今回の求職者は既に他のリクルーターに電話を転送されていたので、ジムはもう会社を退職したのかと尋ねてきました。他の人ではなくジムと話したかったそうです。何と答えればよかったでしょうか。」というのが私の質問だった。

フレッドが眉間に皺を寄せ、「メグ、ジムが会社を辞めたとは言うな。ジムは辞めてないのだから。」と無感情な声で言う。

えっ?ジムは先月ここを退職したではないか。既に彼の社会保険解約の手続きも済んでいるのに。

「いいか、ジムは辞めたんじゃない。俺が雇用契約を更新しなかったんだ。」というのが彼の示唆していた事らしかった。「ジムがリクルーターとして業績を出さなかったと俺が判断したんだ。俺が、俺が、彼の雇用契約を更新しなかったんだよ。」フレッドは「俺が」を強調して、この事実をもう二、三度繰り返す。

論点が明らかにずれていた。求職者は「どのように」ジムが会社を去ったのか聞いているのではなく、ジムがまだ会社に在籍していて彼の対応ができるかどうかを知りたいのに。

「そうしたら、フレッドさんがジムの雇用契約を更新しなかったから、彼はもう会社にいませんと求職者に答えればいいのですか。」

私の喉がこの質問を通さなかったのは疑う余地も無い。フレッドのジャガイモ形の頭がますますピンク色になるのを見たくはなかった。それに、「俺が契約を更新しなかった。」と繰り返す彼の妙に強張った表情が恐ろしかった。まるで彼は人生を通して何万回も拒絶されてきて、今回こそは自分の方から縁を切ったのだと必死に訴えているように聞こえた。それか、単に私に警告していただけなのかもしれない。自分の気分一つで従業員はいくらでも首にできるのだと、権力を示したかったのかもしれない。

西友を出てまた同じ家路を歩く。根拠もなく分かるのは、たとえ雇止めを前もって予想できていたとしても結局同じ2月18日を生きただろうということ。

***

2019年3月3日

雛祭り。梨花によると父はいまだに雛人形をピアノの上に飾っているらしい。だから三人娘のうち二人は30代後半でまだ独身なのだ。

ジモティーから電子レンジに対する問合せを五通受け取った。来週、一人が引き取りに来る。楽天で食器棚も探した。中のガラス瓶が見えるようガラス戸の付いた棚が良い。こうして新しい台所の風景を思い描くのは良い気晴らしになる。

「空のガラス瓶、持っていますか。」と、高井戸で小さな焼鳥屋をしている友人の啓二にLINEメッセージを送ってみた。

「いくつかあるけど蓋がないかもしれない。何に使うの?」啓二は興味津々だ。

「ピクルスを作って瓶に入れるの。」と説明しておく。「誰かが冷蔵庫を引き取った後は瓶に食べ物を保存する事になるから、できるだけ沢山瓶がほしいんです。」

「誰かが冷蔵庫を引き取った後って、どういうこと?」

啓二の怪訝な顔を思い浮かべ、笑ってしまう。私が15年以上も洗濯機無しで生活していると知った時の、彼の顔を思い出す。私は毎朝バスタブで衣服を手洗いしているのだ。

「もっと大きい冷蔵庫を買うのかい?…あ、いや違うな。冷蔵庫無しの生活を始めるつもりなんだろう?」

「よくわかりましたね!」

「でも、どうして?」

どうしていけない事があろうか。世界には冷蔵庫無しで暮らしている人が大勢いる。啓二は父と同年代だから、彼の両親もそんな家電無しで生活していたに違いない。

「最近ちょっと退屈で―」と返信した。仕事を首になって毎日家にいるとは言いたくなかった。「だから台所の模様替えを始めたんです。」

啓二の書き込みが止まる。恵がまたおかしな事を始めた、と首を振って妻に話す姿が目に見えるようだ。ピカピカの食器棚で啓二を驚かせる日が待ち遠しい。

何も買う物はなかったが、夕方また西友に出かけた。いつも同じジャケットと帽子姿だけれど、誰かに覚えられていないといい。特に買い物もせず毎日温かい店内でくつろぎ、店員に嫌われている人達の事が今は理解できる。一人で一日中家にいるのは健康によくないのだ。

 

2019年3月4日

朝からひどい雨だった。この日は二つの会社で面接を受けたが、両者はまるで正反対の舞台となった。もう喉の痛みはないものの、初めの面接では三人の怖い顔をした面接官らの前で喉が固く閉じられた。何度かひどく言葉に詰まってしまい、面接官たちが厳かな態度を止めてむしろ笑い出してくれたらいいのにと思った。私が蝉の声をこれほど上手に真似ているのに、どうしたらそんな真剣な顔を保っていられるのか正直解らない。

次の会社の面接官は対照的だった。気さくな笑顔でこちらの緊張をほぐし私の意見に興味を示してくれたから、話が弾み面接は予定していた時間を大幅に超えてしまった。

疲れ果てて帰宅した。濡れたスーツをハンガーに掛けながら、舞台後の俳優の気持ちを想像する。気弱な吃音者か自信に満ちた雄弁家か、どちらが本当の恵なのか分からない。どちらも舞台の上でしか演じられる事がない、単なる配役のような気がした。

2019年3月5日

ゴールデンボックス社の新宿オフィスの住所がどうやら実在しないと分かった。

「東京支社は立ち上げなんです。」ゴールデンボックスで将来私の上司になるホンが弁解してきた。「今、東京都心のオフィスビルを探しているところですよ。」

私は自分のやり方で学び何かを作り上げるのが好きだから、「立ち上げ」と聞いてワクワクする。だが同時に、まだ設立していない会社を信用してはいけないと思った。

メールボックスに新しいメッセージが一通入っていた。美代からだと思い今朝から開けずにいた。将来の雇用主からの連絡を待つ中、彼女からのメールには何度もがっかりさせられたから。でもよく見ると、このメッセージは昨日の午後に訪れた会社からだった。AIコンサルタントの助手として私を正社員採用したいという!

どこかの曲がり角を誤った方向に進み、他人の家にたどり着いたような気がした。

「昨日お話させていただき、とても楽しかったです。石川さんの明るく前向きな性格は、我々営業部で重要になるでしょう。」とメールにある。

頭の中で二つの声が口論を始めた。「申し出を受け入れるな。吃音のない活発な人だと誤解されているだけだ。」と一方が言い、「今すぐ就職を決めれば、この不安から解放されショックから立ち直れる。」と他方。昨日の面接を振り返ると、親しみやすい面接官のお陰で私は自信に満ちた誰かを演じていた。「その会社には行くな。いずれ吃音の事がバレるのだから。」最後には、本能がこの臆病な声に同意した。

採用の内定を辞退すると決めて梨花の同意を求めたが、私が聞きたい言葉は返ってこなかった。「そこに就職するべきだったのに。私達の年齢だと、いつまた正社員として採用してもらえるかわからないよ。」という妹は正しい。今回の求職活動中、応募資格者を35歳以下と制限する求人広告を数多く見た。

ITCMにいた時、東京労働局からアンケートが届いた。内容は「会社は求人応募者の採用を年齢で差別していますか。」といったものだ。日本では雇用主は40歳以上の従業員の介護保険料を折半負担しなければならないから、年齢差別は否めないのだろう。どういうわけかフレッドはこのアンケートを疎み、「俺に聞かないで、美代と二人で返答したらどうだ。」と指示してきた。私達、少なくとも私はリクルーター達がフレッドとカレンの下でどのように採用活動をしているか全く知らなかったから、結局由美に頼んでアンケートを埋めてもらう羽目になった。私のHR業務は従業員達の社会保険手続きの手伝いで、採用活動には関わった事がないのだ。

「フレッドは労働局に上手く回答してほしいんだよ。」と美代が翻訳する。「実態とは関係なく、政府の基準に合った適切な回答書類を作れと言っているの。」

思わず笑ってしまった。雇用主は応募者の年齢や性別、適正診断の結果などで採用を決めている。たとえ単に「大人しくて扱い易そうな人」が欲しかっただけだとしても、他の社員たちとの性別バランスや、標的顧客の年齢層、単純に業務経験年数、と言った正当な採用理由をいくらでも挙げられる。求職者も各人の理由で雇用主を選んでいる。誰も、たとえ労働局でも、これをコントロールする事はできない。どんなに強く願っても私は吃音を偽る事はできないから、どうしても職業の選択肢は制限されてしまうのだ。

大きなため息を漏らした。誤って曲がった角に戻り、「吃音」という錘を両足につないだまま歩き続けないといけない。

2019年3月6日

自分がいかに幸福かを再認識しようと、ラップトップで難民を取り上げたドキュメンタリーを見た。プロデューサーはそんな目的でビデオを作製してはいないのだろうが、世界中の悲惨な日々に苦しむ人達を見る度に自分の現在の生活をありがたく感じる。清潔で居心地良い部屋に住み、毎日おいしい物を食べ、家族や友達がいる。日本では独身女性だからといって、見ず知らずの太った老人と無理やり結婚させられたりしないし―。

「今回は断らないでよ。すごく良い人を紹介してあげるんだから。」姉の慶子からメールが飛び込んできた。「ユーモアのセンスがある男性なの。世界中を旅したことがあって、お金持ちの人。」

慶子は私が職探し中だと知らない。私が特別ユーモアのセンスがある金持ちの男性に興味がない事も、知らないようだ。

「ごめん、今誰とも会う気にはなれないから。」とすぐさま返事した。

「でもお父さんとお母さんが心配してるの、知ってるでしょう。どんどん年取っていくの、忘れないで。来月のお母さんの誕生日には実家に行くつもり?」慶子は私より2歳しか年上でないのに、特に結婚後は20年くらい先輩みたいな口調で話してくる。

「行かないと思う。アナがいない実家は想像できないから。」去年の11月に犬が他界して以来、私は日野の両親を訪ねていなかった。

「恵、まだそんな事言ってるの。お父さんお母さんを見てごらん。二人はアナと同じ家で毎日一緒に過ごしてきたんだよ。二人の悲しみはもっと深いだろうに、ちゃんと前向きに生きてる。」

携帯電話をベッドの上に放り投げ、部屋を出た。慶子がここから遠い横浜にいて本当に良かった。

高井戸方面に目的もなく歩きながら、ドキュメンタリーで見た留置所にいる難民たちの事を考える。彼らの目は不安と畏れしか映していなかった。きっと私はこういうビデオに慣れてしまっていて、どこか別の惑星で起きている作り話の映画のような感覚でドキュメンタリーを見ている。過酷な世界を視聴者に見せた後すぐに元の良い暮らしに戻るだろう記者たちを、以前のように崇拝できないのは何故だろう。実際に同じ立場にならない限り、他人を本当に理解する事はできない。

派遣先で犯した過失により2018年8月にITCMを解雇されたアッシュの裏切られたような顔を思い出す。データの扱いを巡り職場のセキュリティ規則に違反しているという認識はなかったと、彼は何度も謝った。アッシュの後任のスリーも全く同じ理由、セキュリティ規則違反で首になった。誰も、従業員を教育すべきITCMの責任や派遣先会社の規則の周知能力を問わなかった。誰一人、職を失った従業員と家族の生活を気にしなかった。私は二人を気の毒に思うだけで、何もできなかった。

あの時私は、ドキュメンタリーを見ているような感覚で彼らを見てはいなかったか。

***

2019年3月7日

天沼にある職業安定所、ハローワークに歩いて行った。

「総務の仕事を探しているのですね。」デスクで私の履歴書をチェックしながら、白髪のカウンセラーが尋ねる。「他に何か次の職場に期待する事はありますか。」

「あの…従業員たちが商売道具みたいに扱われない会社で働きたいです。」

カウンセラーが怪訝そうな顔を上げたので、すぐに続けた。

「実は、今の職場はハローワークに紹介していただきました。私の労働条件は求人票の記載の通りで全く不満はありません。ただ、この職場でたくさんの従業員が正当な理由なしに解雇されるのを見てきました。」

愚痴を言うな、と自分を促す。仕事を探しに来たのではなかったか。でも不満が滲み出てくる。

「自分の業務は好きだったのですが、他の社員達が不当な扱いをされているのを見るのは辛かったです。」

自分も無惨に解雇されたと何故言えないのだろう。自分は他の人達と違い「解雇された」という汚名で呼ばれるべきではない、とでも思っているのか。

初めて解雇現場を見たのはITCMに入社してわずか2ケ月後の2016年9月のこと。

「顧客先のプロジェクトが終わったから、フレッドが全員解雇だって。」

美代の言い方はまるで一杯になったゴミ箱を空にするよう私に指示しているみたいだった。「大丈夫。皆、契約社員はこういう不安定なものだと分かってるから。」

彼女の言葉とは裏腹に私が目の当たりにしたのは、四人の社員、ニック、アルフ、ジョン、クインの衝撃を受けた顔だった。

「年間契約のまだ六カ月目です。従業員には退職日の三十日前の解雇予告通知か、三十日分の給与が与えられます。」ちょうどITCMが業務委託を始めたばかりのアフタスが素早く助言してきた。これを私が上司達に伝えると、今まで解雇した社員にそんな特典は与えた事がないと言われた。

「ITエンジニア達はよく会社を変えるの。皆すぐ次の職場を見つけるよ。」美代はそう言ったけれど、私は後にニックは就労ビザの満期前に次のスポンサーが見つからず国に帰ったと知った。二人の小さな子供がいるアルフは3ヶ月間仕事が見つからなかったという。ジョンは将来IT分野に戻りたいと願いながらもキッチン補助としてホテルに就職する事になった。クインだけがITエンジニアとしてスムーズに転職したようだった。

「そうですね、こちら側でできる事が一つあります。」と、ハローワークのカウンセラーが申し出る。「あなたが経験された事を記録し、この先ITCMに興味をもった求職者に伝えられるようにしますよ。」

「一つの参考情報として、ですね。」私は頷く。「そうしていただけたらと思います。」

カウンセラーが私の報告をITCMデータベースに入力している間、美代の声が頭の中に響いた。「同情を乞わないで。会社が従業員を商売道具として扱うのは自然な事だから。従業員たちも同じ。他の会社から条件の良い仕事をもらったら、すぐ転職するでしょう。」

ハローワークの事務所内を見回した。パソコン画面に向き合い仕事を探す人々。どこか憂鬱な光景だ。誰一人として、良い条件の職場を求めて都合よく前職を退社したようには見えない。少なくとも、私は違った。

***

2019年3月8日

昨夜、生理が始まった。今月は最悪の精神状態だから強い生理痛がくるかもしれない。最後に猛烈な生理痛に襲われたのは、特に心配事もなかった去年の4月のことだが。その時は床に倒れこみ一時間もだえ苦しんだ。婦人科に行ったが、いつも通り子宮に異常は見つからなかった。

「日々の生活でストレスや心配事を抱えていますか。」私の緊張した細い顔を見て、答えを決めつけるように医師が尋ねてきた。医師たちはよく、「ストレスは痛みをひどくするから、心配するのをやめなさい。」と言うが、私はいつも自分の脳に好きなだけ心配させて最悪の痛みに備えさせる。

心配しながら、今朝は台所改革プロジェクトに取り組んだ。冷蔵庫についてジモティーで一件問合せを受けていたが、配送依頼は断る事になった。今のところ冷蔵庫無しの生活は円滑だ。ブロッコリーは5日後に少し黄色くなり、生の鶏肉は刻んだニンニクと塩をまぶして瓶に入れると3日間は腐った匂いもなく保存できると分かった。

「でも夏は厳しいだろうな。」とキムに書き、スカイプでチャットを始める。冷蔵庫無し生活の他に、就職活動の様子も彼女に伝えた。「人材派遣会社から、来週月曜の面接に備えて質問リストをもらったよ。」

「5年後の自分は何をしていますか、みたいな質問?」とキムが聞く。

正にその質問がリストにあったから笑ってしまった。「そう。答えを考えておかないといけないの。派遣会社がいくつかアドバイスをくれたけど…」厄介だ。事実、私は今まで一つの職場に5年間も勤めた事がない。

「答えを考えておくなんて、嘘をつこうとしているみたい。」とキム。

同感だ。ロールプレイに何の意味があるのだろう。もう、派遣会社ミシェル・レインからのアドバイスを読むのは止めよう。

ひどく心配したわりに夕方まで全く生理痛がなかった。これだから医師が時々「ストレス」について言う事は信用できないのだ。嬉しくて、大波スポーツクラブのバレエのクラスに行く事にした。

ジムのスタジオで久美子が私を見つけ、元々大きい目をさらに見開く。

「あら、どうしてた?しばらく来なかったじゃないの。」

「風邪をひいていたんです。」と答えた。「あと、仕事探しでちょっと忙しくて。」

「じゃあ、今の職場を辞めるって決めたのね。」久美子は私がずっとITCMのマネージャーたちに反対していたのを知っていた。

「はい。今月末で退職です。」

「辞めると決めた」の方が「雇止めされた」よりはるかに聞こえが良いではないか。ここの華麗なバレエマダム達に、社長に蹴り出されたなんてとても言えない。彼女たちの淑やかなレオタードや滑らかな動きは、そよ風に舞う色とりどりの花びらのよう。私も美しいダンサーだったら、こんなジャージではなく皆のような服を着るのに。

でも、ここにいられるだけで十分幸せだ。クラシック音楽に合わせて先生がステップを教え始めると、全ての不安を忘れられた。魔法みたい!

2019年3月9日

昼に杉並公会堂で合唱の練習に参加し元気になった。実を言うと歌っている間は吃音の事を考えないから、合唱は私の吃音セラピーの一部なのだ。

ゴールデンボックス社のホンが今東京を訪ねていると昨夜メールがきていた。

「あなたに会いに来ましたよ。」と彼が言う。「韓国では会社側が求人に応募して下さった方を訪ねるのです。私達は日本の会社と違い、将来の同僚たちに交通費をかけて会社に来るよう頼んだりしません。」

恐らく東京のオフィスビルの視察に来たのだろうが、こんな親切な誘いは断れない。

約束通り15時に、ホンが黒皮のジャケット姿で荻窪駅西口に現れた。彼の日に焼けた丸顔は美代を思わせたが、近くのカフェで話すにつれ、その表面的な丁寧さも彼女と似ている気がした。

「電話面談をした人事が石川さんはとても信頼できそうな人だと言っていましたが、その通りですね。」コーヒーカップをソーサーに置いて、ホンが流暢な日本語で言う。

「そうです。」と私は心の中で答える。私は信頼できる忠実な人間だが、そういう人を採用するとはどういう事か彼は分かっているだろうか。

「恵ちゃんは正直すぎるよね。どの会社もこのくらいのごまかしはしてるよ。」というのが美代得意の言い訳だった。「そうでないと、ビジネスを続けていられないからね。」

「どの会社ですか。」

ITCMマネージャーらと従業員達の間の度重なる諍いに疲れ果てていた時、一度美代に尋ねたことがある。「どの会社が社員に法定の有給日数を与えないんですか。どの会社もというなら、一社名前を挙げてみて下さい。」

美代は一つも会社名を挙げなかったが、代わりに「派遣先の顧客が私達に有給10日分しか払わないのに、たとえ2年目だからって私達が社員に11日分あげるわけにはいかないの。私達が損しちゃうでしょう、わかる?」と言った。

「私達の会社はとてもクリーンですから労働法遵守については心配いりませんよ。韓国政府からも仕事を請け負っているんです。」とホンが安心させるように言う。荻窪から電車でわずか15分の四ツ谷に新しいオフィスを立ち上げる予定だとも言った。「残業もないから、仕事の後ジムにも行けますよ。オフィスは石川さんの好きなように管理していただければいいです。」

現実には出来過ぎている話だが、思わず楽しい新生活を想像してしまう。見てろ、フレッド。私は真新しいゴールデンボックス社のオフィスマネージャーになって、ITCMを首になった事に感謝するだろうよ!

帰宅した時には前向きで自信に満ちた別人になっていた。私の新しい会社の事を知って羨ましがる美代の顔が目に浮かぶ。

その夜、優しそうな女性が私の電子レンジを買い取って行った。全て順調だ。

2019年3月10日

2月18日以降、初めて良い夢を見た。夢の中で私は両親の家に向かって歩いていた。見慣れた一本道の途中でアナの白黒の姿は視界に入ってこない。父はアナを連れて私を出迎えるために、何時に駅に着くか聞いてこなかった。でも私は一人ではなかったから寂しくなかった。私の隣を歩く人は始めバレエの先生に姿形が似ていて、すぐにアナの姿に変わった。

目覚めた後もベッドの中でしばらく心地よさに浸った。子供の頃、母に髪を梳かしてもらった後の感覚。

携帯電話が鳴り、美代からのメールが快い夢を打ち砕く。

「真澄さんから恵ちゃんにメールがきてるよ。源泉徴収票の事を聞いてる。」

転送されてきた真澄からのメッセージは、私のITCMのGメール宛に送られていた。私がGメールアカウントをブロックされオフィスから閉め出されてもう3週間だ。何故私がITCMにいない事を彼女はまだ知らないのだろう。

落ち着かず、ヘレナにメールを書いた。「私のGoogleアカウントが今どうなっているのかベンに聞いてくれる?誰かが私を装ってアカウントを操作しているの?」

心のどこかで二人の迷惑そうな顔が浮かぶ。ヘレナとベンは良い人たちだが、上司との間のトラブルは避けたいはずだ。特にベンは日本での5年間の就労ビザを申請中だから、スポンサーとなる会社は重要なのだ。

ITCMでの最終日に見たベンの動揺した顔を思い出す。2年半の間同じオフィスで働いてきた後こんな別れ方をするなんて、今だに本当に起きた事ではないような気がする。

***

2019年3月11日

嵐で電車が遅れたが、西新宿のビルに面接の10分前に着いた。ミシェル・レインに言われていた通り14階の受付電話で来訪を告げ、会社の応接室に案内される。部屋は広大で、光沢のある木製テーブルの周りを二十以上の皮椅子が囲んでいた。どうしよう。どの席に座るべきか誰も教えてくれなかった。

真ん中の席に座り、会社から出された緑茶を飲んで落ち着こうと努める。早くもこの裕福そうな米国コンピュータ会社に採用される事はないと悟ったが、それならとにかく会話を楽しんで良い経験にしようと決めた。

ビルを出る頃には天気が著しく変わっていた。嵐は去り、温かい風が太陽の下を流れる。

「実は、リストにある質問は一つも聞かれなかったよ。」と家で遅い昼食を取りながらキムに報告する。蓋を開けてみたら、その会社での三人の従業員と社長との面談は笑いの絶えないカジュアルなものだった。

「代わりに、日本人の社長から血液型を聞かれた。」

これにアメリカ人の友人は驚く。「血液型?そんな質問される事があるんだ!」

私の知る限り、日本人と韓国人くらいが血液型に偏見を持っている。私もある程度の偏見があるのを否定できない。今ホンの血液型を知りたくなっている自分が嫌だ。もしゴールデンボックス社で働く事になれば、彼は私の直属の上司になるのだから。ホンが面接で私に酒は飲めるかと尋ね、答えを聞いて少しがっかりして見えた時、彼は美代と同じ血液型だろうと私は勝手に予想した。

ホンに血液型を聞くなよ、恵。自分が狭い視野を持つ人間だと周知するようなものだから。

***

2019年3月13日

妄想の中でホンと美代が兄妹のようになってきた。ゴールデンボックス社を完全には信頼できず、不安でまだ求人広告を凝視する日々。

ミシェル・レインからの知らせを待っていたものだから、夕方携帯電話が鳴るとすぐに応えた。

「メグさん、」ヘザーの声が心臓を突き刺す。一瞬にして、何日経っても消え去らない2月18日に引きずり戻される。

「メールを二通送りましたが、まだ返事をもらっていません。」美代の新しいアシスタントは責め口調だ。「千恵子さんの住民税について、すぐ知りたいんですが。」

また住民税か。美代から同じ質問をされて既に答えたはずだ。なぜ自治体に直接聞かないのだろう。

「すみません、でも今は何の資料も見れないし…」強張った声が何とか絞り出される。「メールを読んで、お返事します。」

電話を切った後も呼吸が浅かった。私が悪い。応える前に電話番号を確認するべきだった。「どうして電話に出たの?」梨花の不機嫌な声が頭の中に響く。「今は有給消化中だよ。恵は酷い事されたのに、もう十分会社を助けてあげたでしょう。」派遣会社からの電話だと思ったの、と一人言い訳をする。だがもちろん違った。やはりアメリカの会社は二次面接の機会をくれなかった。ヘザーのきれいな肌を思い出し、急に嫉妬を覚える。フレッドは美人のアシスタントが欲しくて私を捨てたのだろうか。

取り乱したチンプをなだめようと、スティーブ・ピーターズ博士著の「チンプ・パラドックス」を開く。雇止めされて以来この本の中の、二人の同僚に嵌められて会社を首になった男性の事を考えていた。世の中は不公平だと解っている。物語はいつもハッピーエンドではないと知っている。他人を傷つけて快楽を覚えるサイコパスも存在するし、世界中に理不尽な現実に苦しむ人々がいる事も知っている。それでもまだ前を向けない。まだこのショックと無念さを忘れられない。ピーターズ博士、どうしたらいいですか。

***

2019年3月14日

温かい午後だった。携帯が鳴り、ITCMの番号からではなかったので電話に出た。

「予約されていた本が杉並中央図書館に届いています。」と知らない声が言う。

本を予約していたのを忘れかけていた。そうだ、今の私に必要なのは良い本だ。すぐさま図書館へ出かけた。

「To Kill a Mockingbird 」を読み始めると、アティカス・フィンチがすぐ好きになった。中学生の頃は「ペリー・メイスン」のデラ・ストリートのような、正義の味方弁護士の秘書になるのが夢だった。吃音があるからペリーのようになる自分は全く想像できなかったが、事務所で彼を支えながら共に悪と戦うデラはすごくかっこいい。

「恵ちゃん、メールに労働法の事ちょっと書きすぎるんじゃない。ここでは書かない方がいいよ。」という美代の警告を思い出した。「フレッドは法律に脅されるのが嫌いだから。」

「脅し?私はただ社労士さんが言っている事を伝えているだけですよ。」私は矢のように真っ直ぐで、真実を言っている限り正義は自分の味方なのだと信じていた。たぶんペリー・メイスンを見過ぎたのだろう。

犬の吠える声が夕方の外気を通して響く。冷えてくる前に雨戸を閉めようと立ち上がった。隣近所の犬の飼い主に吠え声に迷惑していると誤解されないよう、雨戸をそっと閉める。犬の声を聞くと私の犬との思い出が蘇ってくるから、むしろ嬉しかった。

「アナを見て。恵が上司たちの文句ばかり言ってるから、悲しそうだよ。」

確かに梨花が言うように、アナが疲れた様子でバギーの縁に頭を載せている。去年の夏、アナが14歳の頃だ。焼け付くようなアスファルトの上を歩かずにすむよう、公園までこのバギーに乗せていた。「母親が不幸だと犬は感じ取るんだよ。」梨花だけでなく家族の皆が、4歳になるまで毎日面倒を看てきた私のことをアナは母親だと思っているとよく言っていた。

横断歩道の前でバギーを止めて、アナの頭を撫でた。

「心配いらないよ。アナが元気で一緒にいる限り私はすごく幸せだから。」

一年前にアナが不治の肝臓癌と診断された時、彼女が自分の世界で一番大切なものだと気付いた。それ以来毎週末のように実家のアナを訪ね、一緒にいられる時間を大切にしてきた。美代やフレッドを批判している時は不幸に見えたかもしれないが、誤解だ。去年の11月2日まではアナがいたから、私は幸せだった。

2018年の10月21日が、私がアナと過ごした最後の日になった。アナは私の手から鹿肉のかけらを食べ、バギーから飛び降りて一緒に歩いた。涼しくなり始めていたから、アナはこれから元気になると思えた。公園で歩いた後、アナは居間のクッションの上で休んでいた。またすぐ遊びに来るからねと頭を撫でて玄関の方へ去ると、母がアナの所に来て「恵が行っちゃうよ。寂しいね。」と言った。玄関からクッションの上で母に撫でられているアナを振り返った。アナもこちらを見つめていて、いつものようにその目が「行かないで」と言っていた。私の方へ来たがったけれど、もう自分で立ち上がる事はできなかった。

そんな思い出に浸りながら、また本を開くまでの間断続的な近所の犬の声を聞いていた。

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