第一章 2019年3月-下

2019年3月‐上 < > II. 2019年4月

2019年3月15日

先週の月曜に面接を受けた会社、RAグループが契約社員の採用内定通知をくれた。怖い顔で尋問してきた面接官達がどもった応募者を選ぶなんて驚きだ。面接官に良い印象はなかったが、来月「無職」と呼ばれるのをチンプが恐れて前向きな返答をした。まだ二週間、就職活動を続ける時間がある。

金曜日。夕方のバレエのクラスに出るためスポーツジムに行った。そこで久美子に「仕事が決まったの!」という自分の姿を何度も想像してきた。でも待てよ。このお上品な場所で軽々しく転職したと公言するべきだろうか。私はここでお笑いみたいに踊っているから、仕事も安易に跳び繋ぐ人だと皆に思われないだろうか。やはり、久美子以外には転職の事は言うまい。

久美子がやって来て、来月このクラスのメンバーで会食を開くが参加できるかと聞いてきた。

「わかりません。来月からこのクラスに来られるかどうかも分からないから―」と言いながら、惨めさに浸る。19時からのクラスに間に合うような仕事を探すのは、実は難儀だった。もしRAグループに就職したら残業を頼まれるかもしれないし。

「荻窪の近くで仕事が見つかるといいわね。」久美子が言う。初めて、彼女のような主婦や安定した仕事を持つ人達を羨ましいと思った。

先生が音楽をかけると、皆が一番ポジションでバーの前に立ちストレッチを始める。今はまだこのクラスを離れたくない。ここにいると全てを忘れられるから。

***

2019年3月16日

今朝、切羽詰まったメールが美代から届いた。何度試してもアリバシステムから顧客に請求書が発行できないという。

「恵ちゃんはシンシアがアリバの事を知っていると言ってたけど、香港のやり方は私たちのとは違うって言われたよ。」と美代に責められ、眩暈を覚える。いつまでこれが続くのだろう。

もう一度アリバシステムについて私が知る限りの説明をした後、「すみませんが、もしまだ請求書を発行できなかったらアリバのカスタマーサービスに聞いて下さい。」とメールした。今オフィスでフレッド、美代、ヘザーが私を批判していようが構わない。妄想の中でフレッドが、「シンシアが助けてくれないのは、メグのせいかもしれないな。」と言う。「あり得ます。ここでの最終日に、メグはシンシアとスカイプでチャットしていたから。」美代が同意する。

もしや上司達はこれを恐れていたのだろうか。私に対する不当な雇止めに他の社員達が動揺すると思い、悪い噂が広がる前に突然私を追い出す事にしたのだろうか。

2017年の1月、ブラジル人社員のルカがITCMオフィスを去る直前の涙目を見た時、私は会社のマネジャーらに軽蔑感を覚えた。

「明日からもう出社するなと言われるなんて、ルカは相当ショックを受けたでしょうね。」憤慨して美代に言った。「前日ではなく、もう少し早く契約切れを社員に伝えられないのでしょうか。」

「リラックスして、恵ちゃん。ルカは初めから契約社員だと知ってたんだよ。」美代はいつもリラックスしている。

「でも一週間前にルカと話した時、カレンが次の職場を見つけてくれるから大丈夫と言っていましたよ。」そうでなければ、最終日にあれほど絶望的には見えなかったはずだ。

「もちろん、うちのセールスチームはルカの次の職場を探してたよ。でも見つからなかったの。」煙草臭い息を吐いて、彼女が説明する。

「それなら、次の職場を見つけられないかもしれないと伝えておくべきだったんじゃないですか。まるで次が決まっているかのように、期待させる代わりに…」言いながら、ITCMはルカに自分で仕事を探してほしくなかったのだと気づいた。もし次の派遣先が見つかった時に上手く利用できるよう、彼には手ぶらでいて欲しかったのだ。ルカが最終日に見せた涙に気付かなければ、私はこんな疑念を持たなかったろう。

「ルカは態度が横柄でITの仲間達から嫌われてたの、知ってる?」美代が自身を正当化する。「それに彼はもう年だし。だから、ルカの事は忘れなね。」

従業員達の最終就業日を見れば、彼らがその会社でどう扱われてきたかが解る。私がルカの涙を見たように、2月18日に私が流した無色の血を見て何が起きていたのか疑問を持った人がいるかもしれない。美代はその社員に何と答えるだろうか。

「メグは上司達に対して、時に私にまで批判的だったの、知ってる?」オフィスマネジャーのずる賢い声は妄想の中でさえ聞き慣れたものだ。「彼女、実はITCMを退職したかったんだよ。だから、メグの事は忘れなね。」

***

2019年3月17日

楽天から食器棚が届いた。早速組み立てた後、写真を撮って梨花に送る。

「なるほど、冷蔵庫無しの生活を始めたんだね。どんな感じ?」というのが彼女の反応だ。妹は私の台所改革を知ってもさほど驚かなかった。何しろ37年間の付き合いだから。

「すごくいいよ。この時期はどんな物でも3日間は瓶の中で保存できて、3日で生ものは食べ切れるからちょうどいい。」作りたての野菜炒めを食べながら返信する。実際、3日間漬け込んだ後の方がエビは味が染みていて美味しい。台所改革のお陰で最近食欲が戻ってきていた。

「それに、料理の時味付けしなくていいんだよ。味付け済みの鶏肉を瓶から取り出して、卵、ワカメ、葱と一緒に鍋に入れれば、完璧なチキンスープの出来上がり!」

「それ良いね!」梨花は感心した様子だ。

でも妹が私を真似しないのは分かっている。友達も誰一人、同じ事はしないだろう。

***

2019年3月18日

今日の面接が最後になるといいと思いながら、上野のマンション内にある社会保険労務士事務所を訪れた。面接官はこの個人事務所の所有者で40代前半に見える。課されたテスト用紙を提出すると、彼が満足そうな表情を浮かべた。

「ありがとうございます。この用紙をこんなに埋めていただいたのは初めてです。」

私はITCMのHR業務にも携わっていたから、出された社会保険申請に関するテストは難しくなかった。

「この仕事が好きでした。労働法について学ぶのが特に楽しかったです。」と、固い椅子の上で神経質に体を動かすことなく答える。

「それなら、どうして今の職場を退職されるのですか。」とごく自然に聞かれた。

従業員の扱いについて会社の上司達に反対していました―、用意された答えが頭に浮かんだが、声が出てこない。一瞬、吃音を恐れた。

「退職したくありませんでした。会社が私の雇用契約を更新しないと決めたのです。」

面接官が私を凝視する。

「契約満期という理由しか言われませんでした。でも、私の契約は過去に三回更新されていて、私は就業規則の違反や悪い事は何もしていないので、不当解雇だと思っています。」

この小さな事務所は外資系の会社を顧客にしているから、気に入らない従業員を首にしたい顧客から日常的に相談を受けているかもしれない。

「私は真面目で有能な社員でした。会社に貢献した事で、これまで二度昇進し表彰されました。ディレクターは明らかに権力を乱用して私を解雇したのです。」

「なるほど。」面接官が頷く。「あなたのディレクターはそんな良い社員にいなくなってほしかったのですね。どうしてだと思いますか。」

「私が労働法に従うよう言い続けたからです。社労士さんたちの言葉を翻訳して上司に伝える事は、私の仕事の一部でした。」

「社労士」という言葉を聞いて、彼の顔がわずかに変わる。

「2ケ月前、私の会社はその社労士事務所との契約も打ち切りました。」と付け加えた。

アフタスは他の事務所と比べて費用がかかるから、と美代は説明した。一理あるのだろうが、私はアフタスがこれまでの社労士事務所が指摘しなかった助言をする度にフレッドが不機嫌になるのを見てきた。アフタスは単に自らの仕事をしていただけなので、契約解除は彼らにとっても不公平な仕打ちだろう。特に最近の「ソムウェイ悪夢」でアフタスの業務は膨大になっていた。

ソムウェイジャパンは2017年の10月にITCMの新しい顧客になり、ソムウェイからプロジェクトを落札したカレンはITCMから高額な報酬を得た。ところがプロジェクトが始まって間もなく、私達HRには従業員達からの次々と苦情が寄せられてきた。

ITCMから最初にソムウェイに派遣された社員が既に、準備不足でプロジェクトは回らないだろうと警告していた。彼はストレスからメニエール病にかかり退職した。数カ月以内に、業務が過酷で続けられないとさらに五名が退職した。ある社員は日本語があまり話せなくても構わないと面接で言われたが、実際はほとんど日本人の客を相手にしなければならなかったと苦情を言った。別の社員は業務に必要な基本的なITや英語の知識は丁寧な研修で学べると説明を受けたが、実際は何の研修も受けられなかったという。未経験者の研修を頼まれていたITカスタマーサービス経験者は、業務の間チームはトイレに行く時間さえないと訴えてきた。彼は派遣先でパニック症に襲われ、二度も救急車で病院に搬送された。

また、疲れ果てたソムウェイ派遣社員たちは、残業代が払われていないと頻繁に問い合わせてきた。残業代を支払う代わりにITCMはタイムシートの記録方法を変え、2時間を超える残業をした時だけシートに記載し残業代を請求するよう社員に指示した。退職者は後を絶たず、アフタスはITCM社員の社会保険への加入や脱退の手続きを請け負っていたから、アフタスへの支払いが膨れ上がるのは当然だった。

カレンのソムウェイ管理に不満を持ったITCMのリクルーターたちは、香港本社の幹部らと会合した。「社員らが適切な研修を受ける前はおろか十分な人員さえ採用できていない状態で、カレンはプロジェクトを落札したいがために顧客に業務を請け負えると話しました。プロジェクトが始まった今、私達はたとえ不適切な人材でも採用を強いられています。」というのが彼らの見解だ。会合に出た四人のリクルーターのうち三人は、何らかの形で私の雇止め前にITCMを去っている。

私がソムウェイに関して最後に聞いたのは、桃子を首にしようというカレンの計画だった。桃子だけがソムウェイプロジェクトの始まりから勤務し続けていて、顧客から高く評価されている社員だったのに。

「桃子さん、他の社員の文句を言い過ぎるからカレンがウザくなってきたんだよ。」と美代が軽く説明した。

カレンとフレッドが「ウザくなってきて」社員を首にするのだ!私が今いるのは幼稚園?これは本当に2019年の東京の会社で起きている事なのだろうか。

面接官を見返した時、おそらく彼は私の目に浮かぶ皮肉な笑みに気付いただろう。私のITCMに対する怒りは、羞恥に代わっていた。今目の前にいる社労士にこんな幼稚な上司達の話をするのは、ただ恥ずかしかった。

社労士事務所を出ると、上野アメヨコ商店街に寄る事もなく真っ直ぐ山手線に乗る。初めて、「本当の」面接を受けたような気がした。彼の事務所は絶対に顧客の権力乱用を許し労働者を不当に解雇させたりしない、と面接官は言っていた。彼の正義感は今、本の中でトム・ロビンソンの裁判で戦っているアティカスを思わせる。

2019年3月19日

虎ノ門にある精神科のカウンセラーに会うため早起きした。先月TIKの精神科長、山田先生に連絡を取り今日の面談を予約していた。昨年ITCMが従業員の健康保険をTIK保険に変える手伝いをしたから、私はこのTIKのカウンセリングサービスを知っていたのだ。保険会社の変更はサムの文句から始まった。

「前職の健康保険料はもっと低かったよ。」とサムがつぶやいた。「僕の給与はもっと高かったのに。」彼の職名は「金融データアナリスト」だ。

美代は、「サムの事は放っておきな。彼は3年前、派遣先の会社で直接雇用されるのを前提に入社したんだけど今だにうちから派遣されてるから、いつも不満なんだよ。」と言ったが、私は業務の合間に私有の健康保険会社を探し始めた。美代、フレッド、香港本社にTIKを紹介して承認を得たり、保険変更に必要な書類を用意したりするのに半年かかった。最終的にはTIKに変わりITCMは経費を削減できたとして、私は会社から表彰された。

「TIKの被保険者は無料で精神科のカウンセリングを受けられるんですよ。」と社員のローカンに紹介したのはいつ頃だったか。あの時は自分がこうしてTIKの精神科待合室で先生が前の診察を終えるのを待つ姿など、全く想像していなかった。

山田先生はスーツ姿で現れた。四角い顔はごく一般的な60代の男性に見えたが、目が白兎の目のように真っ赤だった。

「昨夜、よく眠れなかったのですか。」と尋ねかけて思い留まる。ここでは私がこの質問をされる立場なのだ。

「さて、外資系企業での解雇話は聞いた事がありますが、多くが営業部の社員達からです。」山田先生が落ち着いた声で言う。「総務として3年近く勤務した後解雇された話は聞いた事がありませんので、石川さんとお会いして話してみたかったのです。」

「ディレクターは何かを恐れいていたのだと思います。」と私は言った。「自分の考えに反する意見は全て否定的に受け取る人なので。」

去年の10月、リクルーターたちが総務アシスタントの求職者を探すよう指示されたと言って、由美が私を心配してきた。

「カレンは派遣先の名前を言わなかったんです。もしかしたら恵さんの後任かも!」

その後よく眠れなくなり、ある夜不安に耐えきれず美代に尋ねた。

「誰がそんなバカな事を言ったの?」美代は怒ったように答えた。「香港本社は恵ちゃんが真面目に働いていると解ってるよ。会社は恵ちゃんを必要としてる。誰も後任なんて来ないから。」

翌月に犬を亡くしてこの心配事は私の頭から消え去ってしまったが、思い返せばあの頃はソムウェイ社員らとITCMマネジャー達の間に立ち、アフタスに頻繁に労働相談をしていた。

「石川さんのメールを読んだ時、自分の話も打ち明けようと思いました。実は私も過去に会社を解雇された事があるのです。」山田先生の赤い目が遠くを見やる。

彼は多国籍製薬会社の日本支社で人事部長をしていた。時差のため東京の社員たちは毎日夜中まで残り他支社との会議に参加していたが、夜勤のシステムはなく健康を害して次々と退職していったという。山田先生はヨーロッパの本社に、週一日だけ日本時間の昼間に会議を開くか社員を日中休ませるよう提案した。返答は、「何故そんなネガティブな事を言うのか」だった。

「何度か提言を続けたら、私みたいなネガティブな部長は要らないと言われましたよ。」先生が苦笑いを浮かべる。これを聞いてもさほど驚かない自分に驚く。

私がもう雇止めの理由は探していないと、先生は分かっていた。

「いまだに辛いのは、犯罪者のようにオフィスから追い出された事です。1ヶ月経ちましたが、2月18日を昨日の事のように思い出します。」と私が打ち明ける。

「私もそれを聞いてかなりショックを受けました。」ベテランの先生がため息をつく。「権力の乱用以外、何ものでもないですね。会社は外国のやり方を続けているのかもしれませんが、日本には従業員の最低限の権利を守る法律があります。」

「ITCMも法律を認識しているのでしょう。それで、雇止め通知の後、突然在宅勤務を指示したのを書面ではくれませんでした。」もう、書面の通知がほしいと美代に頼むのは諦めていた。

45分のカウンセリングはあっという間だったが、誰かに話を聞いてもらう事は寒い夜に毛布を一枚羽織るようなものだ。そうでなければ辛辣な冷気から身を守ろうとして逆に身を焼いてしまいそうな体熱を、いくぶんか和らげてくれる。最後には二人で私の次の仕事の話をした。

「次の職場で頑張って下さいね。きっとすぐ元気になりますよ。」山田先生が古い友人のように玄関まで見送ってくれた。

***

2019年3月20日

ゴールデンボックス社が来週の東京訪問を取り止めたという。「心配いらないですよ。すぐに東京オフィスを立ち上げる予定ですから。」ホンの気軽さは美代そっくりだ。

心配になりキムにメッセージを送る。TIKの山田先生に連絡してその赤い目をさらに充血させるつもりはないし、キムとチャットしていると気が紛れた。今日、彼女は星座占いのウェブサイトを教えてくれた。母児手帳を取り出し、自分の出生情報をそのサイトに入力してレポートを見る。

『魚座上位の天秤座。周囲の人はあなたがどんな人だか掴めない。しばしば静かで恥ずかしがり屋なのに、別の時はおしゃべりで情熱的だったりする…』

何てことだ。これは私ではないか!カメレオンの色のように変化する性格!

「どんな状況下で生まれたかは、何を与えられたかだよ。生まれ持った物をどうやって使っていくか、経験した事にどう反応するかが結局私達を変えていくから。」とキムが説明する。

「これ面白いね。」私は自分のレポートを読み進める。

『魚座上昇の人は、つま先で立ち続けさせてくれる人(飽きさせない人)に惹かれる。』

ふむ、バレエの先生はルルベの練習で私達をつま先立ちにさせるけれど…。何て馬鹿な事を私は考えているのか。

『あなたはいつも最善最良の生き方を探しているが、その理想主義は多くの不満を意味する。人生常に選択を迫られるから、その時々を生きる事を学ばない限り、あなたが心休まる事はない―』

「その時々を生きる」のは、私にとって不可能に近いくらい難しい。私の思考はいつもどこかへ旅している。誰がこのタイムマシーンをくれたのか分からない。時間は頭の中に存在していて、そこに「時間」がある限り私はそれを超えて旅ができるのだ。

夕方まで自分の星座占いのレポートを分析していたら、少し頭痛がしてきた。頭を休めようと100円ショップに出かけてガラス瓶を買った。家に帰り袋に入っていた塩を瓶に移すと、塩がきれいな白砂に変わる。未来を想像して啓二や梨花が瓶を持ってきてくれるのを待つのではなく、今この時に行動するのだ。

2019年3月21日

晴天の祝日。毛布を洗いたい気分だが、気温が高くなる夏まで待たないといけない。

「どうして夏に毛布を洗わないといけないの?」久美子にLINEチャットで聞かれ、すぐに自分の軽率な発言を後悔する。ちょうど先週、お互いのLINEアドレスを交換したところだった。「分厚い毛布をバスタブの中できれいな長靴で踏みつけた後、夏の強い日差しの下8時間は干さないと完全には乾かない。」と、まるで皆が洗濯機無しで生活した事があるようには答えなかった。代わりに、「だって真夏になるまでもう寒い日がないか分からないから。」と返事しておく。

昼前、友達に会いに錦糸町へ出かけた。皆で入ったヴィーガンレストランの横に立つ桜の木は満開だ。この三人の女友達とは、1年前にある精神疾患支援グループで出会い不思議な縁で結ばれた。うち二人は何年間も仕事に就いていない。一人はオフィスで働いていたが、消えたいと考える事があり薬を必要としている。私が抱えているのは吃音だが、まだ彼女たちの前ではどもった事がなかった。

ランチの間、皆で自らの陰鬱な精神状態を笑い合った。自分の苦悩について話していると、その深刻さが突然何か愉快な物のように感じられるのは何故だろう。長い間笑っていなかった事に気づいた。私の悪い癖の一つに、「目標を達成するまでは楽しい事を禁じる」というものがある。この癖は恐らく8歳の頃、水泳の試験に合格した褒美として父が私と梨花に瓶のオレンジジュースをくれた時から始まった。達成感と共に味わうジュースの味は最高で、以来何か目標を持つとそれを成し遂げた後の成功にばかり焦点を置くようになった。今はダメ、学期末テストが終わったらこのサンダルを買おう。バドミントンの試合に勝ったらこのカフェに行こう。入試に通ったら映画館でこの映画を観よう、というように。気づいたら、目標を達成するまでは何も楽しめない人間になっていた。

17時前には錦糸町駅で皆と別れた。

「じゃあ、次回ね。」

「どんなカウンセリングだったか、教えてね。」

プラットフォームで叫び合う。こんな楽しそうな女性たちが精神支援グループで出会ったとは、誰も思わないだろう。私達は皆、表向きは「普通」に見えるから。

私はITCMで大抵は吃音を制御してきたが、一度だけ香港の同僚ジャニーとの会話の最中に電話を切った事がある。パニックになり、慌てて彼女にメールを送った。

「急に電話を切って本当にごめんなさい。吃音です。突然怖くなって喉が閉まる、すごく厄介な症状があるの。」

ジャニーの返事は私の想像を超えたものだった。「大丈夫、わかるよ。メグは書くのが上手だから、メールでコミュニケーションが取れている限り何も問題ないよ。」

泣きたい気持ちになった。

「吃音が大嫌い!他の皆が簡単にできる事ができない自分が、すごく恥ずかしい!」感情的になって、そう書いた。彼女のように視野の広い人から理解され、優しさを受けるのが苦痛だった。

「そんなに気にしないで大丈夫。誰にでもできない事があるんだから。」

ジャニーにはただ圧倒された。彼女にも何かできない事や恐れているものがあるのだろうか。きっとそうだ。ここにいる私の鬱病の友達のように、彼女も外側だけ「普通」のマスクを被っているのかも。だからきっと、そんなに温かい心を持っているのかもしれない。

三人のうちの一人、早紀と錦糸町からの帰りの電車が同じだった。彼女にジャニーの話をしたかったが、今は喉があまり多くの言葉を通しそうにない。だから、「ITCMを退職する前に、ジャニーにお礼を言いたかったな。」とだけ言った。

「ジャニーって誰?」と早紀が尋ねる。

「前の同僚。」

ずっとITCMに多くの未練を残した幽霊みたいな気分だったけれど、私にはまだ良い友達がいるのだと気付いた。「早紀たちみたいな優しい人だよ。」

***

2019年3月22日

真面目に、もう長くこの不安に耐えられそうにない。ゴールデンボックス社からは音沙汰がなく、何だか再びゴミのように捨てられた気がする。

「本当にRAグループに就職しようかな。」気持ちを落ち着かせようと、梨花にメールした。

梨花はRAのウェブサイトを調べ始めて会社の歴史が浅いと言ってきたが、私は新規立ち上げの会社で働こうとしていたのだ。歴史など気にしない。気にしているのは、将来RAで私の上司になるであろう怖い顔の面接官だけ。

それでも新しい求人情報はないかと、手が自動的に「インディード」アイコンをクリックしている。東京にある立ち上げのホテルで総務の空きがあった。一瞬の躊躇もなくその会社のメールアドレスに履歴書を送る。すぐに電話がかかってきて、来週月曜の面接が決まった。我知らず、私は仕事探しの達人になっているみたい。

夕方大波スポーツクラブに行った。ここにいる何人かのバレリーナは、クラシックバレエはそんなに気軽に学ぶものではないと思っているかもしれない。彼女らの中に私には無い躾の精神が見える。でもここに居させて下さい、と私は心の中で頭を下げている。金曜のこの時間は、今の私にとってかけがえのないものだから。

久美子が来て、私の横で脚のストレッチを始めた。彼女は定年退職後の趣味としてダンスを楽しんでいるうちの一人だ。その固い身体を見て思わず深いため息が漏れる。

「就職活動、結構大変なのね?」久美子が尋ねてきた。私が突然会社から追放されたなんて、もちろん彼女は知らない。

「日に日に自信を失っていく気がする。」とこぼすと、久美子はまるで私と初めて会ったかのように、こちらを見つめてくる。ここでいつもお笑いダンスをしている私が、本当は物事を「深刻に」受け取る人とは思わなかったのだろう。

「明日時間ある?お昼を一緒に食べるのはどうかしら。」と久美子が誘ってくれた。

「ずっと一人で、死ぬほど時間はあります!」

***

2019年3月23日

久美子が荻窪駅近くのオーガニックレストランに連れていってくれた。彼女は私の話す事を長くは覚えていないような呑気なオーラを漂わせていたから、吃音の事を打ち明けてみたが、キノコスープを吞み込みながら難なく受け取ってもらえた。私が年配の人達と仲良くなれる理由の一つは、彼らが良い意味で心地よく鈍感だから。

話すうちに、久美子が駅前に建つ大きなビルを所有しその最上階に住んでいると知った。夫婦で40年以上もそこに住んでいるのだから、この街の店を全て知っているのも不思議ではない。久美子のように定年退職して裕福な60代の自分を想像してみる。子供たちは既に家を出て、時々孫たちを連れて訪ねてくるのだ。『幸せな老後を過ごすでしょう…』という自分の星座占いのレポートを思い出し、60歳になるのが待ち遠しくなる。

「-あんなに優しくてハンサムな先生は知らないわ。」久美子がジムのバレエの先生の話をしている。「生徒たちの間で王子って呼ばれているの、知ってた?」とまるで10代の女子のように聞いてきた。

「いいえ、知りませんでした。」

「河合先生。おとぎ話に出てくる王子様みたいよね。」久美子の大きな瞳が輝いている。私が60代になってバレエを習う時も、そんな王子様先生がいますように!

***

2019年3月24日

また孤独な日。誰かと過ごす日が「孤独な日」を定義付ける。連絡できる人はいるけれど、誰にも仕事を首になったとは言いたくない。

「え、どうして解雇されたの?」と聞かれるだろう。「信じられない!一体どんな理由で、会社は恵みたいな良い子を手放すの?」

政治的な理由だけではないのかもしれない。ディレクターが私を「(彼にとっての)良い子」として見てはいない事に、恐らくずっと前から気づいていた。

2017年1月の事。取り乱した様子のフレッドが会議室でラップトップを見せてきた。

「誕生日にこのメールを見て、俺がどんな気持ちになったか想像できるか。」

彼が指している私が書いたメールは、ITCMから契約終了の通知を受け取り、もう少し早く知らせてほしかったと言ってきた派遣社員に宛てたものだった。

「同感です。このような大事な通知を最終就業日の直前にお渡しするのは、不親切と思います。本当に申し訳ありません…」という私の返信が、フレッドの誕生日を台無しにしたようだった。

フレッドは憤慨し、私のメールをもっと厳しく監督するよう美代に指示した。私は「何が不親切なんだ。契約終了は契約終了だろう。」とフレッドのように噛みつく代わりに、ショックを受けた従業員に理解を示した方が彼の傷を癒すと信じていたが、とにかくフレッドに謝罪した。

私の価値観もこのディレクターとは正反対だった。私は高所恐怖症だから、品川のマンションの40階にあるフレッドの部屋から見えるという夜景を羨ましいと思った事はない。フレッドはわずか5分の移動でもタクシーを呼ぶが、乗り物酔いをする私はタクシーを避けている。お酒は消毒液みたいな匂いだから、私はフレッドが好む高価なシャンパンよりフルーツジュースの方が百倍好き。彼は自分の高級腕時計に感動しない私のような人は、自然と好かなかったのだろう。

フレッドはよくオフィス近くのカフェにリクルーター達を呼んで話をした。カフェのオーナーに、朝からアイリッシュコーヒーを注文する英国「紳士」として覚えられていたくらいだ。一度だけ、私もそのカフェでフレッドと話した事がある。2016年8月のことで、業務の話の後当時話題だった米国大統領選挙について雑談した。フレッドがトランプ氏を批判した時、私は初めて二人の意見が一致したと思った。

「フレッドさんと同じ意見です。壁を作っても問題は解決しないと思います。皆、他の方法を見つけるでしょう。危険な航海をしたり、人身売買に利用されたり―」

「その通り。」と頷く彼を見て嬉しかった。その時は、「カッコいい!フレッドとロナルド・ペリーのロングコート姿って、アメリカ映画のCSIエージェントみたい!」とよく言っていたハナのように、私も彼を「信頼できるボス」と思っていたからフレッドに好かれたかったのだ。でも私が「トランプ氏は富や名声の事しか頭にない、ただのビジネスマンみたいに見える。」というと、フレッドの顔が少し変わったようだった。何故かはわからない。私は決して彼の事を言ったわけではないのに。

フレッドが私を好かない他の理由は、私の吃音かもしれない。

「普通の茶はどこかと聞いているんだ!普通の茶は、一体どこにあるんだ!」

ディレクターがハーブティのティーバッグを机に投げ付けながら私に怒鳴った時、喉が完全に閉鎖された。もう一言も発する事は出来ないと分かったから、私は静かにデスクに戻り仕事を始める。オフィス中が急な雷に打たれたように静まり、エマが慌てて自らの紅茶のティーバッグを持って私のデスクへやって来た。

後で美代に、あんなふうに怒鳴られるならもうフレッドの下では働けないと伝えた。喉が閉まってしまい、私は使い物にならないだろうから。

「吃音のせいです。すみません。」と謝った。誰よりも自分の吃音を憎んでいたから、本当に悲しかった。一週間後にフレッドが謝罪してきた時も、同じ言葉を返した。

「過去三年の間これほど重要な顧客を迎えた事はなかったから、先週の月曜はひどく気が張っていたんだ。この日のために紅茶とコーヒーを買っておくよう美代に頼んであったのに用意されていなかったから、つい気が立ってしまった。」というのがフレッドの弁解だった。「あんなふうにメグに怒鳴るべきではなかった。社会人として不適切な行動だったと後悔してる。」

今までオフィスで彼がリクルーター達に怒鳴るのを何度も見てきた。それに、香港本社の上司に言われて私に謝っているだけと知っていた。どう返事したものか。

「謝らなくていいです。私側の問題なので。」と答えた。「他の社員達はフレッドさんの態度に大丈夫なようですが、私は気が弱くてダメなのです。すみません。」

私の代わりにもっと気丈な人を雇いたいかと聞きたい衝動にかられた。そう言われても仕方ないと思っていた。2017年10月の事で、理由は分からないが翌年3月に私の雇用契約は更新され、彼は二度と私に怒鳴ることはなかった。

今でもフレッドに雇止めの「本当の」理由を話してほしかったと思う。納得できたろう。逆の立場で私がディレクターだったら、私は怒鳴り散らす社員を排除したいと思うだろうから。

***

2019年3月25日

神田駅で電車を降り、一ヶ月前まで毎日ITCMオフィスへ通っていた西口商店街を見ないよう東口の方へ急ぐ。ITCMにいた頃は神田迷路で何度か迷い、オフィスにいる美代に助けを求めた事がある。「前のアシスタントもよく道に迷ったけど、5分離れた郵便局から戻って来れなくなった人はいないよ。」と美代は面白がった。神田は嫌いだ。ここの街路は美代との楽しい思い出を蘇らせるから。

今日も道に迷い、立ち上げのホテルに電話すると誠実そうな男性がすぐ迎えに来てくれた。

面接の後、明日私を訪ねて来る予定の梨花にメールする。「上手くいったよ。ホテルは経験のある総務をできるだけ早く採用したいと言ってた。」

もうゴールデンボックスを忘れる事ができそうだ。ホンはあれから何も連絡してこない。既に私の事など忘れているのかも。あぁ、ネルソンを思い出す。きっとこれは天罰だ。

あれは一年ほど前の出来事だった。ネルソンはヘレナにスカウトされ、2018年3月1日からITCMオフィスで勤務する予定のIT社員だった。ところが1日の朝、美代からオフィスにいる私に電話がかかってきて、「もしネルソンがオフィスに来たら、中に入れないで。」と指示してきた。

「どうしてですか?今日が初日の社員でしょう。社会保険加入の準備をしていま―」

「聞いて。彼の雇用契約は取り消されたの。昨日の夜、香港オフィスが彼に連絡するよう言ってきたんだよ。」美代の忙しない声が背後の騒音と共に駆け込んでくる。

「昨日の夜?」頭の中で警鐘が鳴る。実は彼に犯罪歴があったりしたのだろうか。

「私、今オフィスに向かってるから。いい?とにかく何もしないで…あぁ、うん、中に入れてもいいけど、余計な事は話さないようにね。分かった?」

電話をしている間、リクルーター達の心配そうな視線を感じていた。新しいIT社員について、彼らもカレンから何か聞いているようだ。

「美代さんからだったの?何て言われましたか?」電話を切るとすぐにエマが聞いてきた。他のリクルーター、ヘレナ、ジム、由美も私の答えを待っている。

「ネルソンの雇用契約が取り消されたと言っていました。」

一瞬、四人のリクルーターらは愕然と沈黙した。

「信じられない!」エマが叫ぶ。「また雇い過ぎたの?」彼女はフランス出身の経験豊富なリクルーターだ。

「私、何と言って謝ったらいいんだろう。私がスカウトしたから、ネルソンは前の職場をもう退職しちゃったのに…」ヘレナが涙ぐむ。

「雇い過ぎでも顧客のプロジェクトの取り消しでも、理由は何にしろ無責任過ぎるよ!」ジムが苛立ちを露わにする。

「でも、そんな事できないんじゃないですか?契約書はもうサインされています。ネルソンは履歴書を偽装したり、嘘をついたりしてないし。会社は単純に彼を追い払えるの?」由美の疑問は尤もだった。何だかひどい眩暈を覚える。

ドアベルが鳴ると、ITエンジニア達でさえもコンピューター越しにドアを覗き見ている。出なければならないのは私だ。ドアを開けると、仲田ネルソンが直立していた。新入社員が初日に出社する時、私は「ITCMへようこそ!」と言わなければならず、いつも吃音を恐れていたのだが、今日はもちろん言う必要はない。

会議室ではネルソンも私もニコリともしなかった。「昨夜、あなたの上司からこんな変なメッセージを受け取ったのですが。」と彼がスマートフォンを見せてくる。

美代のメールはわずか一行。「ネルソン、あなたの雇用契約は取り消されましたので、明日の朝出社の必要はありません。」

「これ、何かの冗談ですよね。」ネルソンが尋ねる。「このメールについて何か知っていますか。」

今朝、美代からの電話を取らなければよかったと思う。

「私…実は上司が出社してお話するまで、ここでお待ちいただくよう指示を受けています。」と、吃らずに言った。

それまで感情を隠していたネルソンの顔が変わる。私が不安を拭い去ってくれると、少し期待していたに違いない。

「ただのすごく面白い冗談だと言って下さいよ。はい、これが私の入社書類です。ヘレナに言われた通り、通勤定期券も買いました。」彼は鞄からファイルを取り出し、テーブルの上にきれいに書類を並べる。年金手帳、健康保険証、在留カード、銀行預金通帳、そして買ったばかりのスイカカード…

「ヘレナはデスクにいますか?彼女とお話させてもらえますか。私はもう雇用契約書に署名しているんです。急に取り消しなんて、そんな事が起こるわけはないですよね。」

「ええ、そんな事が起こるわけはないはずなのですが…」と思わず私も繰り返した。そう、今にも美代が現れて私達の心配を笑い飛ばすに違いない。

ところが、ITCMの扉はネルソンの面前で閉められた。彼は失業させられたのに、一円の謝罪金も支払ってもらえなかった。3月1日の交通費さえ、何一つ補償されずに厄介払いされたのだ。ほんの二日前に最寄り駅でスイカカードを買うネルソンの姿を想像した。前職の上司に転職すると告げ、同僚らに挨拶する彼を思い描いた。憂鬱な気持ちになる。

今思い返すと、ITCM香港本社の幹部らに訴状のメールを書いた自分が馬鹿らしい。「これは信頼問題です。」と抗議した。「リクルーター達は、将来自分がスカウト採用した社員にまた同じ事が起こるのではと恐れています。ネルソンさんに何等かの補償をするか、再雇用を検討してください。」私の訴えは、底に大きな穴が開いたバケツに水を溜めようとしているようなものだった。香港の幹部達は全く返信をよこさず、代わりに美代から「香港本社はね、フレッドや他のマネジャーを通してじゃなく、ただの一社員がメールを送ってくるのをウザがるよ。」と警告を受けた。彼女はオンライン上でITCMを批判する書き込みをしたと言って、ネルソンの事も激しく批難した。

なぜ私はこんな上司達を信用したのだろう。どうして真っ先に労働局に相談しなかったのだろう。恐らく、自分が「本当に」邪悪な会社に所属していると認めたくなかったのだ。最後の最後まで会社を信じ、良い所を見ようとしてきた。そしてついに、その愚かさに天罰が下ったのだ。

***

2019年3月26日

梨花が朝から私のアパートを訪ねて来ていた。彼女と話しながら、何百もの明確な言葉がまるで過重な水圧みたいに喉を塞いでしまう。きっと私の脳は不必要にせっかち過ぎて、まだ喉の準備ができていないうちにつまらない心配をする時間ができてしまうのだ。

「首にされるって分かってたんでしょう。その会社で2年間も不当解雇を見てきたんだから。首になる前に次の職場を見つけとくべきだったんだよ。そしたらこんな屈辱や不安に苦しむ事はなかったのに!」

2月18日の後妹に会うのは初めてで、彼女の責め口調にひどく傷ついた。私が会社から不当に扱われたという事実を憎んでいるだけと分かってはいたが、怒りを抑えられない。

「友達は一人も、首にされた、という言葉を使わないよ。」震える蝉の声で批難した。「だ、だって皆、どれほど私が傷ついたか知ってるから。」

梨花は私が作ったランチのパスタを黙々と食べている。

「想像力が十分にないなら、同じ経験をしないと私の気持ちは分からないよ。」

「あぁ、私は会社を首にはならないよ。私は正社員だし、すごく良く仕事をこなしてるから。」私の双子の妹が言う。

時々自分と梨花が同じ遺伝子を分けたという事実を本気で疑う。彼女にどうやって私の仕事ぶりが分かるというのだろう。

「傷つけに来たのなら、すぐ帰って。」喉の中の蝉が熱さに悲鳴を上げた。「過去から立ち直ろうとしているのに。梨花は回復の妨げになるだけだから!」

私の携帯電話が鳴り、喧嘩の邪魔をした。昨日訪ねた立ち上げのホテルからで、私を総務職に採用したいという知らせだった。即座に梨花と私、天秤座二人でRAグループと立ち上げホテルを天秤にかけ始める。

「RAでは英語で面接を受けたけど、ホテルは英語のスキルをテストしなかったよ。」と私が分析する。「RAの方が英語を学ぶ機会が多いかもしれない。」

「ホテルの年間休日が100日という事は、時々週6日出勤しないといけないんだね。RAの方がいいかな。」梨花が計算機をたたく。「雇用形態だけが気になるところだけど…RAは契約社員でホテルでは正社員採用でしょう。」妹はいつも正社員にこだわる。

彼女だけでなく日本の社会全体が人を雇用形態でランク付けしている。「やっぱりあの人は正規雇用されるよね。あんなに良い大学を出ているんだから。」というように話すのだ。実際には、毎年将来の事を心配しないといけない賢く誠実な契約社員が大勢いる。私は人を雇用形態で判断しないし、そんなもの気にしない。

「仕事探しを止めてRAに行く。」と決断した。この長い3月に終止符を打たないといけない。家に引きこもり沈黙している間に、吃音が悪化してきた気がするから。

 

2019年3月27日

先週採用面接を受けた社会保険労務士事務所からメールがきた。

「懸念されているように残業は定期的に発生しますが、ぜひ当社に来ていただけたらと思います。」とある。

感激のあまり、一瞬バレエを忘れて採用の申し出を受けようかと思った。上野で定期的に残業すれば、金曜のバレエクラスには間に合わないだろう。だから何だというのだ。私にとってバレエとは何なのだろう。

「去年の夏にバレエを始めてから、ひどい生理痛がなくなったの。」といつも人には話している。「体も少し柔らかくなってきたし。すごく健康的。」

「でも仕事の方が大事でしょう。」と梨花は言うだろう。「週末とか夜8時以降にやっている他のバレエ教室を探したらいいじゃん。」

「ダメ!」と私は一人叫ぶ。荻窪大波スポーツクラブの、金曜のバレエのクラスでないといけないのだ。他の教室では同じ先生が教えていないだろうから。ピーターズ博士が著書の中で勧めているように、今の自分の生活で一番大事なものを書き出してみた。

1.金曜のバレエ 2.土曜のコーラス 3.本を読むこと…

何てリストだ!自分の趣味だけではないか。亜実のリストには「両親の面倒を看る事」が一番にくるだろう。明らかに私には尊敬される社労士事務所で働く資格はない。

先に採用通知をもらった別の会社に行く、と丁寧な断りの返事を書いた。

「連絡を取り合いましょう。」と社労士がすぐに返してくる。「石川さんは正直で真面目で、とてもユニークな性格の人とお見受けしました。きっと法律もすぐに覚えるでしょう。」

反射的に涙が出てきた。前職を解雇されたにも関わらず、彼は私のことを正直で真面目な人と見てくれたのだ。

梨花にはこの話はしないでおこう。「その事務所、よほど人が足りないんだね。」とあっさり言われるだろうから。

***

2019年3月28日

雇用契約をしに四ツ谷にあるRAオフィスに行った。険しい顔の部長は面接を受けた時よりも怖く見える。社会保険の書類について話している間ためらいがちに笑顔を作ってみたが、困惑したように睨み返された。気にしない。この男性はきっと片頭痛持ちなのだ。それかバチェラー(独身貴族)で、ロマンスを求めていると未婚の女性社員に誤解されるのを恐れているのかもしれない。後者の考えが気に入った。

四ツ谷駅周辺は桜が満開だった。おにぎりを二つ買い、花の下のベンチで食べながら本を開く。本の中ではアティカスが法定で弁護を続けていた。第一審は敗訴したが、最後には勝って無実のロビンソンを解放するだろう。

家に帰り、どうしたら賢い人達のようになれるか考えた。ITCMでは恐らく誰からも尊敬されなかった。ヘレナとベンは先日送ったメールに返信さえくれない。派遣先の社員たちは私が挨拶もせずに突然ITCMを退職したと思っているだろう。

前職場での最終日を思い出す。そのソフトウェア会社を退職した本当に理由は、私の吃音だった。自分に対してではないものの、日本人社長の怒鳴り声を聞く度に喉が痛くなるほど固く締め付けられた。

「自分のスキルが至らないので、ここでの業務をこなす自信がありません。」と社長に退職理由を話した。思い留まるよう説得されたので、「実は外資系の会社で英語を学びたいんです。」と更に嘘をついた。それを聞いて社長は私に冷淡になったが、別れの挨拶をする時になるとその目にかすかな涙が見えた。

「展示会でこんなにたくさん名詞を集めてくれたね。あなたは恥ずかしがり屋だと言うが、もっと自信を持ちなさい。誰もがこれほどの数の名詞を集められるわけじゃないんだから。」と社長は涙目で私に言った。

彼の会社で気弱な私が長く勤務するのは不可能だったろうが、この最後に言われた言葉だけで、ある意味社長を懐かしく思える。

ITCMで最後にフレッドから言われた言葉は何だったか。「何をしているんだ?」だ。会議室で見たその怯えたようなしかめ面が、永遠に私の記憶のアルバムに閉じられる。今振り返り、フレッドが自らのしかめ面を笑っていてくれたらいい。

「その社員が、退職前に会社の重要な書類を裁断しているんじゃないかと心配したんだよ。」と彼は振り返りながら友人に話すだろう。「何故かって?俺がそいつを首にしたから。ひどくお節介な社員で、オフィスアシスタントのくせに会社の経営管理にまで首を突っ込んできたから首にしたんだ。逆恨みは十分考えられるからな。」

すると友人は、解雇された社員が会社に何も危害を加えないで良かったな、と言うだろう。

「そう、良かったよ。」フレッドが頷く。「過去に会社に復讐しようとしてくる奴を大勢見てきたんだ。ディレクターの職務は重いんだよ。でもほら、それで報酬を得ているからな。ははは。」

ふむ…この男は高給のために今まで何人の社員を首にして恨みをかってきたのだろう。と友人は考えるかもしれない。

空想を止めてラップトップを開けると、数人の友達からメッセージが届いていた。

「おめでとうメグ、仕事決まったんだね!」「聞いて安心したよ。」

それまで心身を占有されていた物から解放されかけると、いつも実は誰一人私の事など気にかけていなかったのではという皮肉な感情を覚える。結局私は命の危険がある大手術を受けたわけでも、戦場にいたわけでもないのだ。2月分の給与は全て支給されたから、この先恐らくITCMとも争わずに済むだろう。RAでの就職を祝ってケーキでも食べなとキムが言う。彼女がここにいて一緒に大きなケーキを食べられたらいいのに。賢者だったら、一人でも自分を祝えるのだろうか。

***

2019年3月29日

ホンから謝罪のメールが届いた。ゴールデンボックス社の幹部たちが東京支社立ち上げの見送りを決めたという。「本当にごめんなさい。私の計画は上司に承認されませんでした。」

「大丈夫ですよ。今回は残念でしたが、また機会がありましたら…」と返信した。こうなったら本当に諦めがつく。

長かった3月も終わろうとしているのに、心はまだざわつく嵐の中。自分と同じように理不尽に解雇された誰かと話がしたかった。私の一ケ月前に解雇されたアイクの事を考える。

アイクはアメリカ人ITエンジニアで、家族と八王子に住んでいた。ITCMで一番長い通勤時間にも関わらず、彼はいつも一番に出社してオフィスのドアを開けていた。私は二番目に出社していたから知っているのだ。初めフレッドはアイクがお気に入りで、よく彼の仕事ぶりを褒めていた。ところが2017年のクリスマスパーティーにアイクは姿を見せず、彼の気落ちした様子が噂され始めた。ちょうどその少し前、彼はソムウェイに派遣されたところだった。

「アイクはフレッドを批判したから、今は嫌われてるんだよ。」と美代が囁く。「フレッドがアイクとエドに、期日までに業務が終わらなかったら国へ帰れと言ったのを大人げない、と批判したの。」

「なるほど。」と私は笑った。その時はこんな事を深刻には受け取らなかった。

2018年の暮れ頃、アイクはITCMから夜勤を指示された。彼は元々ITCMオフィス勤務であったのに既に妥協してソムウェイに一年間派遣されたと言って、夜勤を断った。2019年1月、会社の期待を満たさなかったとして彼は解雇された。

「会社の一方的な決断だよ。ITCMのマネジャーたちは両者で話し合ったと言うかもしれないが、僕は合意していない。継続して働きたかったんだ。」私の送った「退職手続き」メールに、アイクがそう返信してきた。「労働局に不当解雇だと報告してほしい。」

雇用契約の解除を通告されてからアイクはオフィスへ立ち入れなくなったから、彼の青いユニクロのカーディガンがまだ椅子にかけてあった。オフィスにある彼の所持品と健康保険証について電話をしてみると、彼は少しも怒った様子はなく私の声を聞いてむしろ嬉しそうだった。

「聞いて。私はITCMのマネージャー達に同意していませんよ。アイクさんは真面目な社員で、解雇されるべきではないと分かっています。」と彼に伝えたかった。「自信を失わないで。」

「アフタスが健康保険証について聞いています。」デスクにいるカレンを見やりながら言った。彼女は私がアイクに話した一語一語を漏らさずフレッドに報告するだろう。「いつ返却できそうですか。」

アイクは謝って、すぐに保険証を郵送すると言った。その変わらない大らかな声が、巧みに苦痛を隠している。

なぜ彼は会社を去らないといけないの?どうして私は何もできないのだろう?もどかしさが爆発した。

「恵ちゃん、全員を助ける事はできないんだよ。見てみな、誰も自分の事以外は他人の事なんて気にしてないよ。」美代の声が蘇る。

私はただこれらの言葉にすがっていただけだ。自分の罪悪感を和らげるための言い訳が必要だった。本当に行動したかったら、何かできる事があったはず。命を捧げるような大事ではない(火事が起きたら、私は皆を見捨ててウサイン・ボルトより早く走って逃げるだろう)。ただ、簡単にできる小さな事があったはずだ。もし職を失う事を恐れさえしなければ―。

結局私も、誤った善徳に洗脳された多数の一人なのだ。この国では会社に長い間忠誠を誓う人が敬われる。たとえ会社がどんな事をしようと。

アイクの解雇と、吃音のせいではなく彼に伝えられなかった言葉を思い出し、彼の連絡先を探ってみようと思った。ハナにメッセージを送りアイクのメールアドレスを知らないか聞いてみる。たとえ遅すぎるように見えても、賢い人達は決して諦めないだろうから。

 

2019年3月30日

本の中で、高等裁判に進む前にトム・ロビンソンが死んだ。自分も殺されたような気分になる。正義は一体どこにあるのだろうか。急に賢い人達がするように現実を冷静に見て物事の理由付けをするのに嫌気がさしてくる。結局私は賢い人間ではないのだから。

東京労働組合の生田氏に電話をかけた。

「石川さん、ですか?ちょっと記録を見させてください…えっと、あぁ今思い出しました。先月お電話を下さいましたね。」彼は明らかに忙しそうだ。「ご状況はどうですか。2月分の給与は全額支払われましたか?」

「はい、受け取りました。」と早口に答える。なぜか「給与」という言葉が汚れて聞こえた。

「実は、会社が悪い事をしているのに対して何かするべきかを相談したくて、今日はお電話しました。」すぐに相手側の疲れ果てた溜息を感じ取ったが、無視して続けようと決めた。「先月は将来の事が不安なあまり、物事の本質が見えていませんでした。でも今は就職が決まったので―」

「おめでとうございます。お仕事が決まったのですね。」と生田が口を挟む。「よかったですね。」

「ありがとうございます。」と言ったが有難くなかった。突然「就職」も邪悪な言葉のように聞こえる。「―なので今、自分に何が起きたかを冷静に振り返り、このまま忘れ去るべきではないと思うのですが。」

生田は私の考えに前向きではなかった。もう就職が決まったのだから、来月から全てが良い方向へ変わるだろうと言い続ける。

「はい、私はもう大丈夫ですが、今考えているのは自分が何をすべきかです。私がいなくなった後もITCMは同じ事を続けるでしょう。何かできる事があるのではないでしょうか。」と私。

「東京労働組合は何もできないでしょうよ。」という返答だった。「労働者から毎日多くの相談が寄せられているんです。もちろん、あなた個人が会社と法定で争う事もできますが、弁護士費用は高額だし時間を相当取られますよ。」

「なら、何もしないで忘れろとおっしゃるのですか。」怒りで声がかすかに震える。

「それが当初のお考えでしたよね。大事にしたくないと言っておられた。」

あの時美代のメッセージを受け取った後、どれほど不安だったかを思い出す。いかに会社との争いを避けるかしか頭になかった。

「そのとおり、私は弱かったと認めます。すごく弱くて、諦める事を選びました。今でも争い事は望んでいません。でも弱いからと言って、弱者はいじめられて良いのだとお思いですか。」

自分は冷静さを失っていると思う。

「どうして皆、他人にそんなに無関心なのですか。弱い人達は仕返ししてこないと知っているから、強い人達は何をしてもいいのですか。あなたはそれで平気なのですか。だ、だ、だから、職場でのいじめが絶えなくて、たくさんの人が線路に飛び込むのではないですか。」

彼に噛みつくのはお門違いと分かっていたが、チンプを抑えられなかった。相談にのってもらえるどころかむしろ迷惑そうにされた失望感が、怒りに火を付けていた。

「何もすべきでないと言っているわけではありませんよ。」と生田が急になだめるように言う。「東京労働局に報告書を送るといいです。きちんと聞いてもらえるでしょう。」

「そうしますので。ありがとうございました。」私は冷淡に言って、一方的に電話を切った。

自分と全てに対して更に怒りが増してきた。今すぐ巨大な彗星が衝突してきて地球ごと滅ぼしてしまえばいいと思う。

携帯電話が鳴り、力任せに通話ボタンを押した。

「お父さんとお母さんには恵の転職の事、まだ話してないよ。」梨花はいつも私が嵐の中にいる時に電話してくる。「二人に何て話すつもり?」

正直、雇止めされた事は両親には一生言いたくなかった。二人とも今まで私を理解した事はないし、将来も分かってくれないだろう。

「しばらくは話さないつもり。」と答える。

「そうだよね。説明するの難しいだろうね。恵が外資系の会社で一生懸命学んでたの、二人とも知ってるからね。」そう言って梨花のムードが変わる。「それに、すごく酷い事されたもんね。聞いたら二人とも怒り狂うだろうね。」

「誰に対して怒り狂うの?会社に?娘を無惨に解雇したフレッドと美代に怒るの?二人はそんな事しないよ。」と私は皮肉を込めて笑う。「あの世代を知ってるでしょう。あの人達にとって会社の社長は、社長というだけで尊敬すべき絶対的な人なんだから。自分達の娘より会社が言う事を信じるだろうよ。」

「それじゃあ結局その腐った会社に何もしないんだね?」妹は私の諦め声に苛ついた様子だ。「他の負け犬たちと同じように、ただ泣き寝入りするんだ。」

本当に、彼女の挑発的な言い方が嫌いだ。

「何もしてなくないよ。仕事探しを優先してきたの。」と怒る。「将来の不安を取り除くのが一番にすべき事だったから。」

「今は仕事が決まったのに、まだ何もしないつもりなんでしょう。」

してるよ。梨花が電話してくる直前に労働組合と話してたんだよ!という言葉は喉が通さず、ただ頭の中に留まった。これを言ったからって何だというのだ。労働組合と話したせいで、世界中が自分の敵みたいに見捨てられた気分になっただけではないか。妹との電話を切り、すぐにメールを送る。

「ITCMと争わないようにと始め言ってきたのは、梨花じゃなかった?いいよ、本当は私に死んでほしいんだ!」

送信した後、携帯電話の電源を切りベッドに横たわった。どうして私はこんな愚かなカメレオンなのだろう。昨日は賢い人達に近づいたと思ったのに、今日は情緒不安定な15歳に逆戻りだ。

***

2019年3月31日

ソファーからジャケットを拾い上げたら、そこにアナが丸まっていた。

「アナがここにいる!」私が叫ぶと、スパニエル犬は大喜びで跳び上がって吠える。「アナ、会いたかったよ!」

父が来て不思議そうに見てくる。「恵、どうして泣いているんだ。アナはいつもここにいるじゃないか。」

母と梨花は食卓にいた。「恵はアナと第一公園に行くんでしょう。」と母が早口のおしゃべりの合間にこちらを見やる。「もうすぐ野球チームの練習も終わる頃よ。」

「うん、公園に行く!」私は涙目で笑う。「行こうアナ。公園に行って走ろう。」

アナは私の言葉が分かる。喜んで脚に擦り付いてきたから、真っ直ぐ歩けない。

「アナ、そんなに近づいて歩かないで。上手く歩けないよ。」

上手く歩けないよ…

幸せな夢から目覚めて、しばらくすすり泣いた。アナはまだこうして心の中に生きているのだ。

明日はRAグループでの初出勤日になる。

「明日からはお昼のご飯を毎朝炊くつもり。おかずは前の晩の残り物かな。」と、まるで昨日から私のお弁当の話をしていたかのように、梨花にメールを書いた。実は昨夜彼女からメールが届いていたが、読まずに削除していた。すごく長文のメールに見えた。「夏は実験的になる。前の晩のおかずがまだ食べられるか試してみないと。」

次に昨日梨花に送った自分の感情的なメールを削除した。今はその子供じみた言葉が滑稽に見える。妹が見たという映画と違い、ITCMは何も「違法」な事はしていないから、美代とフレッドが私を恐れて殺人を犯す事はないだろう。私が知っている事はオフィス中で知られている事だし、きっと私の名前も最近そのゴシップに加えられ、次の解雇までの間だけ噂されるのだろう。

「食中毒にだけは気をつけてね。様子を教えて。」梨花が返信してきた。「明日から新しい年度が始まるね。充実したものにしよう。」

時々、彼女は校長先生みたいな事を言う。携帯電話を座卓に置き、西友に出かけるために着替えた。外は晴れていたが空気の中に春の雨の匂いがする。

新しい年度が充実したものになるかどうは、正直私は無関心だ。物事は私達の鉄の意志に関わらずに起こるものだから。ITCMはついに雇止めの理由を教えてくれなかった。今はただ川に浮かび、流されてどこかに引っかかるまで漂っていたい。そこに留まり、新しい人達と過ごし、時が来たらまた別の流れへと向かう。

アナが私の世界に現れたように、大切な物は一番予期せぬ所からやってくる。いつの日か、この川の旅路で再び幸せを見つけられるかもしれない。

2019年3月‐上 < > II.2019年4月

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