第二章

2019年3月‐下 < > 2019年5月

これまでの人生で、吃音者の視点から人を三種に分類してきた。第一種の人間は吃音がさも単なる怠惰と意志の欠乏で起きているかのように、どもる者に嫌悪を示す。近隣中学校のバドミントンのコーチに、私の審判の声が弱弱しいと怒鳴られたのを今でも覚えている。バドミントンの審判をするのは私にとって拷問だったが、当時はこのスポーツにはまっていて試合中にスコアを読み上げるのを避ける術はなかった。その中年男性コーチは自らの毅然とした指令によって13歳の女子生徒の吃音が止まるかのように、私に苛立ちをぶつけてきた。もちろん、彼の作戦は成功しなかった。

「あの生徒をそっとしておいてくれませんか。」私のバドミントン部のコーチが隣の学校から来たその男性に頼むのが聞こえた。震える私を見かねたのだ。「あの子は話す事に少し問題があるのです。わかるでしょう。」

私のコーチ、31歳の女性は第二種の人間だった。吃音の事は知らないが、私の無様さを居心地悪く感じて同情を示す。第二種の人は、震え声で話す吃音者に優越感を持っているかもしれない。こんな風に助けられるのは私にとって屈辱だったが、多くの人はこのグループに属していて、私は彼らの優しさに感謝すべきと分かっている。

私の中学校には精神科の相談員はいなかった。1995年の東京ではどの教師も私に「吃音」という言葉を使わず、私はただの「恥ずかしがり屋」だった。それでも私は、吃音者や前にどもっていた経験がある人達、第三種の人が存在するのを知っていた。本や映画の中で彼らに会った事があるのだ。自らの声を恐れる人達は、きっと私の事を理解してくれるに違いない。もし将来結婚するとしたら吃音がある男性とだろう。13歳の時から、ずっと彼を待ち続けている。

2019年4月

2019年4月3日

RAグループのカスタマーサービス部長を「バチェラー」と秘かに名付けた。部長の地位にいる中年の独身男性だから裕福に違いない。彼は第一、第二、どの種類の人間だろう。第二種だといい。

今朝、私が二日前にここに入社して初めてバチェラーが事務所に現れた。

「おはようございます。」斜め前の席につく彼に挨拶する。

「おはよう。」低い仕切りの向こうから無感情な声が返ってきた。彼のキーボードを打つ音が沈黙した狭い室内に響く。まだ他に誰も出社していなかった。

「部長は出張から戻られたばかりと聞きました。フィリピンはどうでしたか?」会話を始めようとして、すぐさま間違いを犯したと気づく。五秒間部長は何も言わず、冷たい目線に凍り付いた。

「向こうは暑かったですか。」と急いで聞く。

「そうでもなかった。」そう言った時、彼の吊り上がった大きな目は既にパソコン画面を向いていた。

いいか恵、このバチェラーに気安く話しかけてはいけない。ここは日本の会社だ。皆が友達みたいに話したりしないのだ。

実は私、石川恵(めぐみ)は、これまで謙虚な態度で日本の会社からむしろ好かれていた。外資の会社にいた時は、パーティー好きの上司の期待に対して自分は大人しすぎると感じていた。だから今、ここの皆とはすぐに馴染めるような気がする。

ちょうど9時前、私くらいの年齢の同僚、三人の女性たちが一斉に出社した。彼女たちは友達みたいにおしゃべりしている。

「恵ちゃんがうちの事務所に来てくれて本当嬉しい。」総務の康江が隣の席から笑いかけてくる。彼女とは既にお互いを下の名前で呼び合っていた。

「私も、来てくれてすごい嬉しい。」私が所属するEメールチームの先輩、奈美子が後ろの席から賛同した。「前任は最悪だったの。あの女、私たちの業務を完全になめきってたよね。」

「あぁ、あの派手な若い子でしょう。」宏美の席は奈美子の隣。「え、違う方?黒髪の静かな子か。確かにあの人もひどかったよね。」

派手な若い方だけが彼女らの敵だったらよかったのに、と思う。私は黒髪でわりと静かだから。このおしゃべりな女性たちに畏敬を絶やしてはといけないと、自分にしかと言い聞かせた。

午後一に、私の二つ目の業務、新規国際プロジェクトでの英語の補助についてバチェラーから説明を受けた。

「我々は定期的に、イギリス、フランス、香港にあるこの三社のプロバイダーと連絡を取り合って国際事業を行っています。」

部長がホワイトボードに三社の名前を書くと、私の気持ちは高鳴る。日本人だけの会社にいても国際的でいられるのだ。羽田空港の国際線ターミナルでハナとばったり出会い、さりげなく「ちょうど出張でパリから戻ったところなの。」と言う自分の姿を想像する。

何かの書類を取りにバチェラーが席の方へ離れている間、ホワイトボードが突然キャビネットから落ちてきて私の肩に当たった。

「痛っ―」

もちろん、私はパリなんて行かないのは分かっている。

「うそっ!」奈美子が即座に振り返った。「大丈夫?誰がこんな不安定な所にボードを置いたの?すごい危ない。」

バチェラーが慌てて戻ってきて私に謝り、謝っている時でさえ彼の顔は怖いのだと知った。

「大丈夫ですよ。」と十回くらい首を振る。「全然痛くなかったし、気にしないで下さい。」

奈美子、康江、宏美の三人が背後で批判的な視線を交し合うのを見て、彼女らは皆部長が嫌いなのだと分かった。

終業時刻の18時になっても、チームの誰一人席を立つ気配がない。派遣社員らが電話を取っていた今は空の席を見やる。

「恵ちゃんは、もう帰っていいよ。」私がキョロキョロしているのに気づいて、奈美子が言った。

「疲れたでしょう。まだ新人でやる事もそんなにないと、気持ち的に疲れるよね。」宏美が理解を示す。

JR四ツ谷駅のフォームで、新しい職場はどうかとメールで聞いてきた梨花に返事を書いた。

「同僚の三人の女性は、皆良い人達だよ。」スマイルの絵文字を加える。「それに二つ目の業務、国際プロジェクトはすごく面白そう。すぐにここで働くのが楽しくなると思う。」

桜がフォームに降り落ちている。人生は桜の花のように儚いと誰かが言ったけれど、RAでの三日間が既に三週間のように感じられた。これから三週間先の事さえ私はもう思い描いている。こんな風にタイムトラベルする脳はあまり有り難くない。今、前途洋々が見えたわけではないから。

***

2019年4月5日

金曜日。仕事の後、クラブ会員になる手続きをしに大波スポーツクラブに駆け込む。

「前の会社を退職して、もうTIK法人会員にはなれないので―」と受付で話す時、落胆が顔に表れないよう努める。TIK保険だと会費の三分の二が割引されたが、今後は全額を払わなければならない。

スタッフに月額九千円ほどの「39歳以下プラン」を勧められた。

「わぁ、月毎のパスはいいですね。毎日ここに来られます!」と熱心な体育会系女性のように私は答える。

実際は金曜のバレエのクラスにしか興味がなかったが、そんな事言えない。スタッフに河合先生の女性ファンの一人だと思われたくなかった。もう少し上手に踊れるようにならないと、私などまだファンになる資格がない。

私がスポーツクラブのパスを作ったと聞いて、久美子は嬉しそう。言うまでもなく彼女は夫と共に何十年間もここのゴールド会員だ。月曜と土曜にある別のバレエのクラスも出たらどうかと誘ってきた。

「厳しい女の先生だけど、上達するように教えてくれるわよ。」面倒見のいい叔母のように彼女が言う。

「いいですね、」と果敢に頷いた。「パスがあるんだから、できるだけ沢山クラスに参加しないともったいないしね。」

厳しい女性指導者の下ですっかり上達した私を見て、感嘆の声を上げる久美子を既に思い描いている。河合先生も私が上手になったのに気づくかもしれない。怖い指導者にも関わらず私が一生懸命練習していると誰かから聞き、ある日私の所にやって来て、こう言うかも―

「はっ、脚をそんなに曲げないと真っすぐ長座できない人、見たことない!」

感嘆(あきれた?)の声を聞いてスタジオの床から視線を上げると、琵琶さんが薄ら笑いを浮かべて私を見下ろしていた。

「言ったでしょう。私の体は荻窪で一番硬いって。」

これを聞いて京都出身のマダムは笑い出す。「ははは、久美子のブリキの体より硬いんじゃない。」

高い声で大笑いする二人の女性につられ、自分もすぐ一緒に笑い出した。

いいんだ。人を笑わせるのは心地良い。「人に感銘を与える」のは何か優れたものでないといけないと、誰が言ったのか。劣ったものでも人を感動させるではないか。むしろ劣ったものの方が、人をもっと喜ばせているように見えるし。

バレエのクラスの後、ヨガに参加するため隣の小さなスタジオに移った。裸足でマットに座り、やや汗を含んだゴムの匂いを吸い込む。この匂いが好きだ。私にとっては金曜日の匂いで、確かな希望の残り香。今ここにいる事を神様に感謝しつつ、既に次の金曜を待ち焦がれている。映画「ショーシャンクの空に」でアンディーが言うように「希望」は良い物だが、満たされない限りずっと続いていくものだ。本当に、一生続くような気がする。

「新しい職場はどう?」ヨガ友達の山岸さんが横のマットから声をかけてきた。「ここに引き続き来られて、本当に良かったよね。」

私が最近転職したのを知っていた。

「はい、よかったです。でも事務所の他の人たちは夜遅くまで働いているんです。派遣社員以外で18時に退社しているのは私だけ。」と言いながら、この重要な事実を危惧しないといけないと気づく。

「残業文化があるみたいだね。典型的な日本の会社でしょう。」しかめ面を作っても、彼女の皺のある顔は優しく微笑んでいるように見える。「この先、残業するように頼まれるかもしれないよ。」

「わー、やめて!」上司の奈美子に頼んでいるかのように、私は山岸さんに乞う。「他の曜日なら夜中まで働いてもいいから、金曜だけは残業はやめて下さい。お願い!」

2019年4月9日

どんな事があっても、もう新しい職場の不平不満は言わないと決めた。長く辛かった三月を振り返ると、仕事があって毎朝会社に出かけられる事に感謝しないといけない。忙しないビジネスマンの集団と一緒に四ツ谷駅から歩きながら、自分は今この社会に認められているのだと感じる。今日、令和の時代を生きているのだ。新鮮な風が私の人生にも吹き込んでくるかもしれない。

それなのに家に帰ると、この愚かな手がスカイプでキムに書いている。

「昨日は18時過ぎに上司から仕事を頼まれて、バレエのクラスに行けなかった。」

また不満。私は文句を言いながら生まれてきたに違いない。

「カスタマーサービスの業務はすごくつまらない。どれも似たような謝罪のメール定型文を使うよう指示されるの。カフェや雑貨店のお客さんから寄せられる苦情はそれぞれ違うのに、ほとんど同じ内容の返事が送るんだよ。」

奈美子は昨日、私が謝罪文に加えた一文を見つけてひどく動揺したようだった。

「この文章は見覚えがないんだけど、どこから取ってきたの?」客に送る返信メールを一つ一つチェックしている彼女が尋ねた。

「ああ、それは私がつけ足したんです。お客様の猫が病気だと書いてあったので…」

「どこからこの文章を取ってきたか聞いてるの。教えたように、過去のメールを参考にした?」彼女の鋭い声が私の言葉を遮る。

「すみません。私が考えた言葉です。」

「お願いだから、定型文か過去のメールから取った文章だけを使ってね。いい?」

ITCMの美代やフレッドと同じで、奈美子は理由を教えてくれない。どうしてそんな決まりがあるのか分からなかったけれど、上司に逆らいたくなかった。

「わかりました。その文を削除します。」

もちろん奈美子に信頼してほしいから、「アドバイスありがとうございます。」と加えた。

私が一文を削除するやいなや、彼女はそのメールを客に送信する。ここでチェッカーが見ているのは全ての文章が定型文を参照しているかどうか、それだけなのだ。

「聞いて。恵ちゃんが加えた文章はすごく良いと思うよ。お客さんも気遣いを喜ぶと思う。でも決まりに従わないといけないの、わかるよね。」と、しばらくした後も奈美子がこの事を気にしているようで驚いた。

「もちろん、よくわかります。」歩いている鳩みたいに頷きながら、理解を示す。

この決まりには私が気にする事ではない何か特別な理由があるのだろう。ここでは請負元のカフェや雑貨店を代行して苦情に対応しているから、決まりは請負元からの依頼なのかもしれない。

「あちこちから言葉や文章を切り貼りして、一日中メールのパッチワークを作っているの。技術も心も要らない、全然面白くない仕事!」

私の不満を聞いて、キムは古いテレビドラマ「オフィススペース」を思い出したと言う。オフィスでつまらない仕事をする事務員らの話で、すごくおかしいらしいから後で観てみよう。

***

2019年4月12日

外が温かくなってきた。この時期は生の鶏肉を瓶の中に入れて二日間は保存できる。新鮮な魚介類は家で保存が難しいから、毎週金曜の昼食は丼丸で弁当を買う事に決めた。丼丸の弁当はたった五百円で五十種類以上のトッピングがあるから、毎週違う種類が食べられる。

事務所の小さな休憩室で持ち帰りの丼丸弁当を開けた。誰かが「おいしそう。どこで買ったの?」と聞いてこないかと、隣のテーブルの数人の女性を見やる。でも皆下を向き自分の弁当やスマホを見ていて他人の弁当には無関心だったので、近くに座っていた細身の髪の長い女性に話しかけてみた。彼女は長い髪に隠されていたイヤホンを外して、私に答えようとする。急に申し訳なくなった。

「ええ、」と女性は言った。「ユーチューブを見ているんです。」

私が邪魔したのをまるで気にしていない様子だ。本当は何を食べているのかを聞いたのだが、彼女の見ているユーチューブに関心がある振りをした。

「アメリカのドラマが好きなんです。観ている間は仕事のこと全部忘れられる。」

彼女の声は弱弱しく、目はスマホの画面以外のどこを見るにも疲れ果てたように生気がなかった。この会社の電話受付員たちは毎日夜遅くまで残業していると聞いた事がある。彼女が観ているのが「オフィススペース」ではないのを確かめた後、そっとしておこうと自分の手元で赤く輝くマグロの方に向き直った。

***

2019年4月13日

叔母のような久美子が、新しく生徒になる私の事を前もってバレエの小田先生に話してくれていた。

「だから今日のクラスで先生はあなたに優しかったのよ。」久美子が得意げに言う。「初心者には特に少し厳しい先生として知られてるんだから。」

今朝の土曜のバレエクラスに出た後、二人でスポーツジム近くの小さなラーメン屋に来ていた。

「ありがとうございます。良さそうな先生ですよね。」いつか彼女の毒矢に貫かれるのを想像しながら言う。今朝のスタジオで小田先生の鋭い目は、早くも私の覚えの悪さに不快感を表していた。でも気にしない。

「バレエの後おいしいお昼を食べてプールに行くの、これ最高ですね。」

気楽な友達とこうして温かいラーメンをすするのが、素直に楽しかった。「プールの後はジャグジーにも行くしね。」

「本当ね。絶対これ、次の土曜にもしましょう。」久美子も楽しんでいるみたい。

二人ともスポーツクラブの近くに住んでいたから、難なく一度家に帰って夕方泳ぎに戻って来られた。久美子はプールの歩行レーンで歩き、私は別のレーンで泳ぐ。小さい頃母が梨花と私を囚人キャンプのような水泳教室に送り込んだおかげで、私はイルカのように泳ぐことができた。

泳いだ後は水着のまま風呂場へ直行する。イルカと違って私は温かいお風呂も好き。家ではシャワーしか浴びないから、全身お湯につかれるのは贅沢な事だ。他の女性たちと共に大きな風呂の中でくつろぎ、茹でダコこみたいになる。

「もう出た方がいいわよ。」久美子が警告を発してきた。「痩せっぽっちはすぐ真っ赤になるんだから。」

私の事を「痩せっぽっち」と呼ぶ声に、いつも嫉妬と優越感が混ざって聞こえる。彼女は体重を落としたい反面、私の幼児体型を憐れんでいるのだ。

他の友達と一緒にサウナ室に消える前に、久美子がこちらに「じゃあね」と手を振る。風呂で湯だった後にサウナで焼かれるなんて、私には無理。

帰宅した後も体がポカポカだった。毛布にくるまって座卓に向かい、キムとチャットする。

「今日は良い土曜日だった。今の職場で苦情を言ってくるお客さん達も、運動した後温かいお風呂に入ったら怒りが納まるだろうに。」

「どんな苦情を扱っているの?」とキムが尋ねる。「こっちでは、料理が冷たいとか味がしないとか、客はいろいろ文句言うけど。」

「あるお客さんは、落とした硬貨を拾っておつりとして渡してきたレストランの従業員にお怒りだったよ。手ではなくエプロンで拾うか、レジから別の硬貨を出して客に渡すべきだって。」

これを聞いてアメリカ人の友人は驚く。

実際、料理や商品に対する不満よりも店員の態度に対する苦情の方が多かった。

カフェの店員の「死んだ魚のような目」が恐ろしかった、という苦情メールを思い出す。

「コーヒーを運んできたウェイトレスが、まるで死んだ魚のような目でこちらを見てきました。ぞっとしました。あんなに冷たくて活力のない目は今まで見たことがありません。」

覚醒している時小学校の先生に「眠そう」と言われて以来、私は自分の小さな目が嫌いだ。コスメの糊で瞼を持ち上げ、少し目を大きく見せたりしていた。もしその店員が普通に、ただ客を見ただけだとしたら?「死んだ魚のような目」と言われてどう感じるだろう。微笑んでいても怖い顔のバチェラーみたいな人もいるし。

「その日はきっと、お客さんにとって酷い日だったに違いないね。ぜひ温かいお風呂に入ってくつろいでほしい。」とキムも同意した。

 

2019年4月18日

RAでの新規国際プロジェクトは進行が遅く、プロジェクトリーダーのバチェラーはいつも外出していて私にあまり仕事をくれない。それでも社内で英語を話す社員は数人しかいないから、この業務のお陰で皆がある程度の敬意(?)を示してくれる。

「オーストラリアに住んでいたんでしょう。石、投げられたりしなかった?」

今日の奈美子の質問は、もちろん冗談ではない。

「ううん、どうして石を投げられるの?」

私より一つ年上の奈美子は、外国でアジア人が人種差別される話を聞いたのだと悪気なく答える。

「白人は他の人種を見下すんでしょう。」宏美が付け加えた。「友達が旅行した時、嫌な事言われたって。」

彼女達はオーストラリア人が皆白人だと信じているようだ。

「お友達は嫌な経験をしたんですね。でも私は誰からも嫌な事をされなかったよ。」と私は繰り返す。

「向こうで背の高い青い目の彼氏がいたりしたの?」というのが次の質問だ。

「ううん、いない。」

「でもブロンドの男性が大勢いたでしょう。」

ブロンドの男性?

一年間働いたシドニーのレストランの上司を思い起こしてみるが、彼は中国系インドネシア人で黒髪だった。アデレードでのフラットメイトはほとんどが中東出身。大家は白人男性だったけれど、禿げていたから髪の色は分からない。

「うん、たぶん何人かはね。」

「何人かって?ねぇ、カッコよかった?」

彼女らと話していると、江戸時代に小舟で海外に渡った初代冒険家の一人になったように感じる。

「恵ちゃん、本当に英語の文章うまいね。」康江が隣の席から私のパソコン画面を覗き込んで、世辞を言った。

ちょうど、昨日送信した自分の英文メールに二つ誤りがあるのを見つけたところだった。一つは「ヒロイン」のスペルミス。「本当にありがとう。アイリーンさんは、私たちのヘロイン(麻薬)ですね。」 と書いてあった。

英語を話さない康江がどうやって私の英語レベルを評価できるのだろう。でも、そんな実質的な質問はしまい。

「通信プロバイダーがイランは管轄外だと言ってる。」と康江も国際プロジェクトに関わっているかのように伝えると、彼女はパソコン画面をよく見ようと椅子を引き寄せてきた。「ほら、ここにそう書いてあるよ。」

プロジェクトについての私の簡単な説明に、康江は熱心に耳を傾ける。バチェラーはこのチームの誰にもプロジェクトの話はしていないようだった。

「そしたら、取引のあるプロバイダー三社からはイランで電話番号を取れないんだね。どうするの?」と彼女が尋ねてくる。

「新しいプロバイダーを探すの。」興奮を抑えながら答えた。「イラン出身の知り合いがいるから、聞いてみる。」

奈美子が私たちの会話を遮って、私にメールパッチワークをするよう指示した。新規の国際プロジェクトよりも、このカスタマーサービス業務を優先するようにと忠告してくる。逆だったらいいのに―。

家に帰り、早速ITCMの派遣社員の一人にメールを書いた。彼はイラン出身で、一年前に妻と一緒に来日した際私がビザの申請を手伝った。

「アミア、先月までITCMにいたメグだけど…」

書きかけて、キーボードの上で指が止まる。

もし彼がまだ、私がITCMを退職した事を知らなかったら?ヘレナは私のGメールアカウントについての質問に、まだ返事をくれていない。

「アミア、先月に私が退職したともう聞いているかもしれないけど…」

もし彼がITCMから、私が連絡してきたら答えないように指示されていたら?このメールが彼と彼の妻に迷惑をかけたりするだろうか。二人は五年間の高度技術者就労ビザで日本に滞在していた。

結局、三行のメール文を書くのに一時間もかかった。もし私を避けたければ、アミアは返事をくれないだろう。考えすぎて疲れた。今の会社の役に立ちたいだけなのだが、私が雇止めされたITCMに仕返しをしたくて連絡してきたと思われるかもしれない。

前職からの突然の解雇は、生活の中でまだ尾を引いていた。一つの拒絶は、時に拒まれた者の人生を変えてしまう。「そんな会社の事は忘れな。恵は変わらず私の友達だよ。」と友人らが言ってくれるように、他の人にはさほど深刻に見えないかもしれない。きっと本当に、彼らの澄んだ心の中で私は何も変わらない。でもこの打ちのめされた胸中で、私はもう以前の恵では無いのだった。

***

2019年4月19日

メール文を切り貼りしながら上司をそっと観察する。私の背中には感度の強い第三の目があるのだ。奈美子には今日は機嫌が良いまま私を18時に解放してほしかった。バレエのクラスの後皆で食事に出かけるから、今夜は絶対にスポーツジムに行かないといけない。先生も生徒達との会食に加わる予定だった。

「もしクラスに間に合わなかったら、レストランの食事だけ参加したらいいわよ。」と久美子に言われたけれど、クラスの後に皆で食事に行きたい。その方が自然に見えるだろうし。

奈美子はある客の苦情について宏美としゃべり続けている。彼女らの会話は仕事中のBGMだ。

「第一承認待ちのフォルダにいくつか返信メールを入れたので、お手すきの際に見て下さい。」と、BGMが途切れた時を見計らって頼む。

「うん、わかった。」と奈美子は頷いてジャズを流し続ける。

第三の目で彼女の散らかった机をさっと見渡した。開いた引き出しの中は一杯のゴミ箱さながら。実を言うとITCMの美代のガラクタ机は好きだった。だが今はそのゴミ溜めの中からマッチョの佐川男子が写るカレンダーを拾い上げて、奈美子をからかう気にはなれない。早く私のメールをチェックして、と祈る。

以前起きた最悪のシナリオはこうだ。私が努力して14時までに与えられた業務を全て終えても、第一承認者の奈美子は16時にそれをまとめてチェックして、いくつかを差し戻してくる。16時半に訂正したメール文を再提出しても、奈美子は会議中だからチェックを受けるのは17時半。もし訂正版が承認されればそれで良し。だが留意すべきは、彼女は時々新しい考えに目覚めて訂正版をさらに見直すように言ってくる事だ。

「うん、指摘した部分をちゃんと訂正してあるね。でも、あと一文あった方がいいと思わない?」などというふうに。

しかも、その後に第二承認者が待っているのだ。

18時になるまで敵陣にいるスパイみたいに気が張って、落ち着かなかった。歯医者の予約があると言って早退する事もできただろうが、この考えはいまだ頭の中を巡り続けている。嘘だからではなく既に頭の中で繰り返されている言葉だから、声に出したら必ずどもると分かって言えなかった。

奈美子が私の今日の業務は全て終わったと認め、18時に帰って良いと言った時には「イエーイ!」と叫びたいくらいだった。

*

バレリーナたちがジムの化粧室で鏡の前に並んでいる。彼女達を見るといつも花屋にいるような気分になる。普段から皆丁寧に化粧していたけれど、今夜のクラスの後は特に厳重なメイクアップが必要みたい。

二十人ほどが近くの海鮮レストランでの夕食会に姿を現した。長い髪を下ろし春物のワンピースを着たバレエマダムたちは、スタジオにいる時よりも華麗に見える。憧れの先生に今笑いかけているからかしら。

自分を敬愛する女性ばかりに囲まれるというのは、一体どんな気分だろうと考える。テーブルには河合先生の他に男性は一人しかいなかった。六十代で先生から個人レッスンも受けている男性だ。実際、金曜のバレエクラスには男性が五名ほど参加していた。前に先生は私達に男性用と女性用の異なるポーズを見せて、「でも今は男性も女性もないですから。どちらでもお好きなポーズを取ってください。」と加えた。生徒たちは微笑んで、私は先生を好きだと感じた。

灰色のカーディガン姿でテーブルの隅に座り、今ここにいられる事を神様に感謝する。先月この会食の事を聞いた時は、まだ求職中で先の事は分からなかったから。

第三の目でマダム二人の向こう側にいる先生の横顔を窺った。数人の女性達と笑顔で話す彼は、ハーレムにいる王子のようには見えない。むしろ花に囲まれた優雅な木に見える。画家が完璧な絵にしようと木の周りに草花を描くように、綺麗な花たちが自然とそこに集まって咲いていた。

レストランは人々の話声で一杯で、近くの席の女性と話している私には先生の声は一言も聞こえない。

「本当?日野の出身なの?私も第一幼稚園に行きましたよ。」

新しくできたバレエ友達が、私と同じ日野の幼稚園、小学校、中学校を卒業していると発覚する。すごい偶然だ。彼女の妹の同級生の友達とかが、おどおどした吃音女子として私を覚えていないといい。

二人とも知っている園長の話で盛り上がっていたら、久美子がこちらを向いた。

「席、変わりましょうか?」すぐ隣の席にいても大声を出さないと聞こえなかった。「そしたら、河合先生の話が聞こえるわよ。」

「いいえ、」と私は急いで首を振る。「ここで大丈夫です。」

先生の近くに座るなんて緊張しそうだ。

それでも別の優しい女性が立ち上がり、私の所へ来て同じ事を聞いてきた。

「みんな河合先生とお話したいから、時々動いて席を変わりましょう。」と、まるで世界共通の決まり事のように言う。

「ありがとうございます。でも私はここで大丈―」

「そうよ、先生に挨拶くらいしないと。それがこの食事会の目的の一つなんだから。」久美子叔母が私の声を遮り、私は心の中で彼女を睨んだ。

数人のマダムがこちらを見ている中、ハンサムな先生の側に座るのを躊躇している自分を間抜けに感じる。もし吃音が怖くなければ、隣の席に滑り込んで先生と適当に五分話す事くらいできたかもしれない。でも私の両足は今、床にしっかり糊付けされていた。本当に動けない―。

「実は私…えーっと…」何か尤もらしい言い訳を探す。「すごくお腹が一杯で動けないんです。」そう言って、恥ずかしそうに笑ってみせた。

「でも、ついさっきまで料理が足りないとあなた言っていたでしょう。」久美子は私の吃音の事などすっかり忘れているのに、こんな些細な事を覚えている。

「あぁ…でも実は、ジュースを飲み過ぎてお腹が重いんです。」と私は申し訳なさそうな顔を保つ。「他の人には言わないでほしいんですが、実はズボンのジップを開けてて…今立って歩いたりできないんです。わかりますか…」

女性は私の囁き声を捉えて微笑んだ。「ええ、わかりますよ。そういう事あるわよね。フフフ。」

彼女が去るのを見て、ようやく危険が過ぎたと感じる。空のグラスをテーブルの上の久美子が見える所に置いた。河合先生が烏龍茶を飲むのを見て、自分も飲みたくなる。本当は喉が渇いていた。

しばらくすると、カクテルで顔がピンク色になった久美子が再びこちらを向き、「あなたの名前!」と叫ぶ。「先生が名前を聞いているわよ!」

河合先生がこちらを見ているのがわかった。そうか、この場で先生が名前を知らないのは新人の私だけに違いない。

「石川といいます。」

私の声は久美子ともう一人の女性に運ばれて行く。

「いつもありがとうございます。」

先生は私が頭を下げるのを見て、「バレエのクラスに来てくれてありがとうございます、石川さん。」と丁寧にお辞儀を返す。

私の中の小さな花が、木の方に向かって即座に蕾を開くのを感じた。不思議だ。今までこの花の存在を知らなかった。

食事会は22時前に終わった。自分のアパートに歩いて帰る途中に満月を見上げて、この花は何ヶ月間も肥料無しで生き延びるだろうと思った。

先生は今、私の名前を知っているから。

 

2019年4月21日

アミアが返信をくれて嬉しい。私が突然ITCMを退職したと聞いて、彼も妻も驚いたという。どうやって私の解雇を知らされたのか聞きたかったが、思いとどまった。真実を伝えても、二人がこの国の会社に持つ綺麗なイメージに傷をつけるだけだ。

イランの通信プロバイダーを紹介してくれた事に対するお礼だけ書いた。本当に有用な情報だ。「私の事は心配しないで。」と書く。「新しい職場で楽しく働いているから。」

実際はITCMでの総務の仕事がすごく恋しかった。

***

2019年4月26日

最近の就職活動中に見た求人広告の中で、何社かが「バランスボールが椅子代わりです。ここでは長時間の座り仕事の後も腰を痛める事がありません。」と謳っていた。別にフィットネス製品の宣伝ではなく、くつろいだ社風を紹介しているのだ。

キーボードを叩く度に上下に小さく揺れながらバチェラーがバランスボールに座る姿を見た瞬間、私のバランスボールのイメージは崩れ去った。この事務所では他に二人、課長と電話チームリーダーの友里がバランスボールに座っているが、三人ともここの囚人看守だ。

私の前の席の課長が、今日の昼過ぎから何やら落ち着かない様子だった。彼、面長の喫煙者はいつも問題が起こるとバチェラーや康江に話すのだが、今は二人とも外出している。何度か電話をかけた後、席を立ったり戻って来たりを繰り返す。電話の内容から、課内の電話オペレーターの一人が誤った番号に電話した事が問題になっているのだと分かった。

くぼんだ目のせいで、課長の顔は今しゃれこうべのように見える。康江は時々「イケメン」と呼んでいたけれど、私にとって彼はいつも「納豆臭い」男だった。その悪臭が席の真上にあるエアコンから出ていると分かるまで、私は課長が毎朝納豆を食べて出社していると疑っていた。

「長い夕方になるね…」奈美子が宏美に「囁く」声は、いつも私の耳に届く。

一人ずつ、電話オペレーターたちが他の部屋から事務所にやってきた。ほとんどは私の知らない社員で、昼休みにユーチューブを観ている細身の髪の長い女性だけ認識できた。他の十数人と同様に頭を低くして黒髪で横顔を隠しているが、彼女の緊張は嫌でも伝わってくる。皆課長に呼ばれて集まったようだが、彼は誰にも一言も発しない。

静かな室内で、課長の机に置かれた通話レコーダーから女性の声が流れ出る。

「こんにちは、横田様のお宅でしょうか。いただいたご注文につきまして、ワカバ工場からご連絡しております。」

沈黙の後、客の疲れた声が応える。「ワカバ工場が、電話をかけてきているの?」

「さようです、横田様。」オペレーターは快活に続ける。「ご注文が確定し今朝商品の発送が済みましたので、ご連絡させていただきました次第で―」

「私は横田ではありません。森岡です。」病人のような声がオペレーターを遮る。「こちらは森岡です。あなたのとこの製品について苦情を申し上げ、払戻を待っている森岡。」怒りを思い出したかのように、突然声色がきつくなる。

「え、申し訳ございません。森岡様…」オペレーターはひどく困惑した様子だ。

「何て失礼な会社なの…」客の声に疲労感が戻り、電話がガチャンと切られる。

Ouch!

事務所内の皆が息を殺している。私は他のメールチームの仲間を見習って何も聞こえないふりをしながら、同じ文章を五回書いている。レコーダーからはまだダイアルトーンが聞こえていて、課長は何も言わない。代わりに彼は何の前触れもなく再生ボタンを押した。

「こんにちは、横田様のお宅でしょうか。いただいたご注文につきまして、ワカバ工場から…」

全会話が再び流された。オペレーター達は実った稲穂をまねて頭を垂れている。私は離席してトイレに行き、時間をかけて用を足した。

驚いた事に、机に戻ると沈黙の中にまだ同じ会話が響いている。

「何て失礼な会社なの…」

一体何度これを聞かないといけないのだろう。もうすぐ18時だ。

「申し訳ありませんでした。」オペレーターの一人がついに声を出した。間違った番号に電話をかけた本人だろう。「リストを注意して見ておくべきでした…」声が哀れなほど震える。

課長はまだ沈黙を保ったままだ。社員らの切腹を期待しているかのように静止し、冷たい目を向けている。

「私の責任でもあります。苦情を寄せてきているお客様について、彼女に注意しておくべきでした。」別の女性がすすり泣き始めた。「私の責任です。」

吐き気を催すような納豆臭さが、机の周りで濃くなっていくような気がする。きっと長い間誰もエアコンのフィルターを掃除していないのだろう。

奈美子に業務が全て終わったと小声で伝えると、まるでテレビで面白い時代劇を見ているのを邪魔されたかのように彼女は手を振り払って私の退社を許した。

まだ18時10分だから急ぐ必要はないのに、私は四ツ谷駅に向かって走る。荻窪に着くと電車から飛び降りて階段を跳ね上がり、大波スポーツクラブに駆け込む。

「あら恵さん、こんにちは。」

久美子が黒のレオタード姿で既にスタジオにいた。他のマダム達はクラシック音楽に合わせて踊りの練習をしている。

ようやく気持ちが落ち着いてきた。

「大丈夫?」久美子が尋ねる。「何かあったの?」

正直、一分前まで大丈夫ではなかった。職場で誰かがミスしたせいではなく、課長が私の吃音者に対する分類において第一種の人間だとわかったから。低い仕切り越しに彼の冷血な殿様の横顔が見えた。

「うん、今はもう大丈夫です。」

春の風に乗る葉のように先生がスタジオに入ってくるのを見て、そう答えた。

***

2019年4月28日

JR品川駅の中央改札は混んでいたが、ゴールデンウィークの初日だからではない。ITCMにいた時、社員の就労ビザ申請でこの駅から何度も入国管理局に行った事があるから、ここがいつも混雑しているのを知っている。

メールに書いてあった通りベージュのトレンチコート姿で亜実が現れた。人混みの中で私のピンク色のガラケーを見つけて声をかけてくる。

「恵さんですか?」

私がオンラインに載せた「英語の勉強仲間募集」の投稿に亜実が応募してきて、今日初めて顔を合わせるのだ。高層ビルの間を歩きながら互いに自己紹介し、亜実は北海道から横須賀に越してきたと分かった。

「同じ名前の亜実というすごく良い友達がいて、彼女も北海道に住んでいますよ!」と私は叫ぶ。私にとって北海道出身の亜実は悪い人のはずがない。「いつか二人に会ってほしいです。」

外の日差しとは対照的にTGIフライデイズの店内は薄暗かった。亜実の勧める巨大なバーガーを注文する。昼食の間、会話が途絶えなかった。亜実に今の仕事について聞かれ、最近転職したと答える。

「今の職場では誰も英語を話さないから英語を忘れてしまって、それでオンラインに投稿したんです。」ピッチャーを持ってテーブル脇を通り過ぎる若い店員をちらと見ながら説明した。 若い世代にとってオンラインでの出会いは何でもないのだろうが、私はまだ「オンラインで」と言う度にこうして辺りを見回してしまう。

「前職は外資系の会社だったんでしょう。どんなでしたか?」と聞かれた。英語を勉強している亜実は外資系企業で働くのが夢だと言う。

「面白かったですよ、いろんな国から来た人たちと働けて―」前の同僚達のカラフルな顔を思い浮かべ、言葉を止める。彼らの笑顔はすぐに最終日のフレッドのしかめ面に拭い去られてしまう。「でも、結局はどこ出身とか何語を話すとかじゃないんですよね。人を個人として見る事を学びました。一人一人を個人として見ると、外国人を見る時も日本人を見るのと同じです。」

亜実は考え深げに頷く。「そうですよね。日本人の中にもいろいろな人がいるし。」

「そういう事です。前の会社では二人のイギリス人から嫌な事をされましたが、だからってイギリスから来た人を皆嫌いになるわけではないので。」私は誠実そうな声で言う。

実際は最近の求職活動中イギリス人の上司を避けていたのだが、そんな事は彼女に言わなくていい。代わりにITCMをどうやって雇止めされたかを告白すると、亜実は衝撃を受けていた。

「日本でいろいろな日本人に会うのと同じで、外国の上司や同僚もその一部です。」皆が持っているわけではない解雇の経験を少し誇らしく感じて、そう言った。

東京の外資系企業に対する亜実の輝かしいイメージが褪せないよう、ITCMで毎年行われる豪華なカクテルパーティーの話もした。

「亜実さんの言うとおり、日本の会社と比べて全体的にリラックスした雰囲気でしたよ。もっと自由がある、というか。」引きつったトーンに気付かれないよう笑顔を作る。

「自由」か。フレッドは、自分が宛先にもCCにも含まれていないメールやスカイプの会話を秘かに監視していたが。前に勤めた日本企業の社長が「スクリューティナイザー」というソフトを導入して社員を監視していたのと正に同じだった。

「でもそんな風に強制的に会社を追われたら、全て悪夢と化してしまうでしょう。」

亜実のショックは簡単には消えないようだ。「ほんの一月前にそんな酷い目に逢ったなんて、本当にかわいそう。」

「いいえ、もう過ぎた事だから。」私は気楽に手を振ってみせる。「ほら、これはあくまで一つの話なので。国内で政府に反対している人が大勢いるのを考えると、中国人だからと全員をまとめて批判できないのと同じです。東京の外資の会社が全てITCMみたいなわけではないですよ。」言いながら、ITCM在籍中に上司に提言してきた事を思い出す。私はまるで中国内にいる反政府家と同じではなかったか。

怒りが蘇り、惨めな解雇話をしたのを後悔する。まだ「過ぎた事」ではなかった。もしかしたらずっと過ぎ去らないのかもしれない。

「心残りがあるとしたら、解雇された同僚達に何もしてあげられなかったのを謝れなかった事かな…」

デザートを注文して話題を亜実の貿易企業に変えたが、私のITCMでの経験は彼女の頭から離れないようだった。レストランを出た時、外は室内と同じくらい薄暗くなっていた。品川駅に向かって歩く途中、亜実が尋ねてくる。

「私のブログの話をしたけど、恵さんは自分のブログを書いてみたくない?」

亜実のネイルアートのウェブサイトは、多くの人に読まれているという。

「自分の経験したことを書いたらいいよ。東京の外資系企業で働く人や、これから働きたい人が興味を持つと思う。」

私の頭を即座に過ったのは、「いつかアイクが私のブログを見つけるかも。ルカやアッシュ、ネルソン、ジャニー、皆が私のブログを読む日が来るのだろうか。」というもの。ハナはまだ返信をくれず、アイクに連絡を取るのを諦めかけていた。

だが自分の屈辱的な体験をオンラインに披露するのは、また別の話だ。

「悪くないかも。」と答える。

亜実がワードプレスについて教えてくれた。頭の中で既に記憶のアルバムから取り出されたITCMの写真が散らばり始める。京急線の改札で別れる前、連絡を取り合おうと約束した。二人とも日本語で話していたし今後もそうするだろうが、気にしない。おそらく私が欲しかったのは英語の勉強仲間ではなく、オーストラリア人は石を投げてこないと知っている友達だったのだ。

「ブログができたら見せてね。」亜実の笑顔が人混みに消えて行った。

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