第二章 2019年5月

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2019年5月3日

何週間も前にヘレナに送ったメールの返信が、今頃受信トレイに入り込んできた。

「メグさんのGメールアカウントはもう不活化されたとベンが言っています。他に何かありますか。」

冷淡な文面が肌を刺す。本当なら2月18日に私がアクセスできなくなった翌日に、アカウントは閉じられるべきだった。この二ヶ月間、誰が私のアカウントを操作していたのだろう。でもこれ以上は聞くまい。ヘレナがもう関わりたくないのは明らかだから。

ヘレナの銀行口座を開きに二人でMUFGに行った時、酷くどもったのを思い出す。神田の狭い路地を歩きながら原因もなく胃が恐怖で引き攣り、焦って理由を探そうとした。フィリピンから来日したばかりのヘレナは、小麦色の丸顔に明るい笑みを浮かべているだけなのに。いつも理由があるわけではなく、一度吃音を恐れるとその恐怖が単に私の喉を圧迫するのだった。

「ありがとう、ヘレナ。」と返事を書いた。「他は大丈夫。ベンにもよろしく。」

ひととき、鶯の歌声が家の近隣全体の時間を止める。

窓辺のガラス瓶に入ったアイビーが若い芽を伸ばし、窓の外では小さな梅の木に黄緑色の葉が芽吹き始めている。植物は愚かな恐れを持たずに生きていて羨ましいが、それでも彼らは全てを知っているように見える。極寒の冬から灼熱の夏を通し、いつもそこに在るのだ。私みたいに逃げたりせずに。

ブログを書き始めようと座卓の前にあぐらをかく。もう五月だから暖房は不要だが、熱いココアを入れた。一啜りごとに思考にふける。まだ過去を振り返るのは躊躇われた。亜実の色鮮やかなネイルアートと違い、私のブログは白黒になるだろう。ITCMでの日々を思い起こすと不満が募るばかり。私の話なんて誰が読むのだろうか。一体誰のために書くのだろう。

驚いた事に脳がタイムトラベルすると、そこにブログを楽しむ人達の顔が見えた。アイクの悪戯っぽい笑みやジムの真剣な頷き、由美の高笑い、美代のクスクス笑いさえ、全てこの壊れた脳裏に映し出される。梨花が両親に私のウェブサイトを教えたら、最近の転職についての厄介な説明を二人にしなくて済むかもしれない。

「2019年2月18日…」

タイムトラベラーにとって過去に戻るのは簡単だ。映画を観るようにその場面が見える。フレッドのしかめ面が昨日見たもののように蘇り、私は自動的に惨めな場面を修正し始めている。

「ディレクターは、本当は私を首にしたくなかった。私を排除したい誰かに洗脳されたのだ―」

想像し始めると、作り話が台風後の川のように溢れ出す。

 「誰か悪知恵の働く人が、会社の不正を私が労働局に密告しようとしていると囁いたのだ。フレッドは私がアフタスと共に労働法に従うよう度々提言してきたのを知っているから、その噂を信じた。恐れた彼はITCMの弁護士、ウェンディや香港本社の上席に相談し石川恵の排除を決断した。いったん解雇されてしまえば、労働局は彼女の訴えを単に首になった従業員からの不服としか受け取らないだろう…」

あぁ、こんな想像は止めないと!三十分経ってもPC画面はまだ真っ白。恵、面白い物語を作り出すんじゃない。ただ、18日に「実際に」何が起きたかを書くのだ。

「2019年2月18日、社長に会議室に呼ばれるのは稀だった―」

うぅ、いまだに胃の中にしこりを感じる。文章になんてしないで、あの日の事は全て忘れ去って二度と思い出さなければいいのに!

***

2019年5月4日

皆がゴールデンウィークの日差しを楽しむ中、こうして座り物書きをしている私は荻窪一暇な人間に違いない。どのくらい書き続けられるか分からないまま、まだ2月18日の事を書いている。ただ、カメレオンの色のように変わる自分のムードをよく知っているから、今何をしているか不確かな事でも明日理由を見つけられる気がする。

***

2019年5月5日

神代植物公園のバラたちはまだ蕾の中に隠れていて、緑の鎧の下に見える赤い層は無垢。

「バラにはまだ早かったけれど、藤の花はきれいね。」他の来園者らと同じように久美子が言う。

私達は藤棚の下のベンチに座っていて、前には苔の浮いた池が輝いている。ゴールデンウィーク中予定が無く、今日のピクニックに久美子を誘ったのは私だった。久美子は孫達の相手や自分の趣味でいつも忙しそう。彼女が何十年も前に左耳の聴覚を失った事や、他の過去話をするのを聞きながらランチを楽しむ。でもやはり私にはバレエの話題が一番面白かった。

「実はね、バレエのクラスの後モップがけするの、止めた方がいいわよ。」私の叔母さながらの久美子が忠告する。「新人だからやらなきゃと思っているんでしょうけど、他の人達もやりたいの。」

他の生徒達の役に立つと信じて、私はいつもスタジオのフロアをモップがけしてきた。

「そうなんですか。スタジオをちょっと駆け回るだけですが。」

「それでも、彼女達はやりたいのよ。」と久美子が言い張る。「河合先生に熱心な姿勢を見てもらいたいの、わかる?」

私の怪訝な顔を見て、彼女は続けた。

「本当よ。私もクラスに参加したての頃はモップを手伝ってたの。新人の仕事だと思ってね。ある日何人かのマダム達が来て、先生に気に入られたいのかって聞いてきたのよ。」

私の顔に笑みが広がる。久美子も少女漫画に出てきそうな話だと言って、すぐ一緒に笑い出した。

「馬鹿らしいのは分かってるけど、本当なのよ。とにかく忠告したからね。」そう言って彼女は、今までマダムらに嫌われてクラスを去って行った生徒達の話をする。特に若くて綺麗で踊りが上手なバレリーナがいち早く去って行くという。

「驚くでしょうけど、何歳になっても女は嫉妬深いのよ。」

「でも私がクラスに参加した時、皆親切でしたよ…」言いながら、それは私が三十七歳で平凡な容姿の下手なダンサーだからだと気づいた。

「いい?この年でこんなポッチャリ体型の私でも、河合先生が私の手の位置を直す時触れると、マダム達から羨ましがられるのよ。」と笑う久美子はむしろ誇らしそうだ。

河合先生が私のひょろひょろした腕の位置を直しても、私は誰からも何も言われた事はない。喜ぶべきなのかどうか―。

「とにかく、嫉妬深いマダムには気を付けるのよ。もちろん良い人達もいるけど、意地悪い人達もいるの。」私の叔母が結論付ける。「恵さんはまだ若くてナイーブだから、私が教えてあげないとね。」

私はナイーブなのだろうか。

蝋燭スタンドのようなバラの茂みを歩きながら、バレエの先生の事を考える。河合先生に初めて会った時は、親切なジムスタッフの一人だと思った。運動靴を脱いで、靴下で他の生徒達を真似するようにと言われた。彼が突然皆の前に出て教え始めた時は驚いた。無知な私は、バレエの先生は女性だと思い込んでいたから。

「河合先生の事、どう思う?」久美子に聞かれてドキッとしたけれど、すぐに彼女が何を言ってほしいか分かった。

「すごく良い先生ですよ。」と評価を始める。「どうして生徒達にそれほど人気があるのか分かります。私達にプレッシャーをかけないで、どんなに上達が遅くても忍耐強く一緒に歩いてくれますよね。実は先生と歩くそんな小さい一歩一歩が私達にとっては貴重なんです。」

久美子が頷く。「そう、先生は踊る楽しさを教えてくれるわよね。」

「その通り。一流の先生とは教えるのが上手な人ではなく、生徒の最高のパフォーマンスを引き出し、生徒を幸せにできる人です。」

「幸せにできる人…。そうね、同感だわ!」

久美子の夢見る目が、湿った風に揺らめく藤の花の向こうを見やる。私の言葉を聞いて先生への敬愛を深めたようだ。その甘いアロマは不思議と私の肺にも染み込んでくる。久美子の想いが鏡の湖に映るとしたら、私の心は苔の張った池の中に潜む。

「河合先生のクラスに比べて、土曜の小田先生のクラスは行きづらいです。」と私が話題を変えた。「小田先生は姿勢を分かりやすく教えてくれるけど、何だかスタジオにいてはいけないような気分になる。」

自分も同じだと言って久美子が笑う。「そうそう。小田先生、私の酷い踊りを見て不快な思いをしてるの、わかるわよ。」

二人で笑ったものの、私は本気で小田先生のクラスで辛辣な目で見られるのが辛くなってきていた。たった四回しかクラスに出ていないのに、もう厳しい先生から逃げ出したいと思っている。やはり私はバレリーナの精神を生まれ持っていない。

2019年5月7日

ゴールデンウィークが終わったが、職場の人達はリフレッシュしたように見えない。ハイキングなどで疲れ果てているのだろうか。

「休暇はどうだった?どこに行ったの?」私と同じ日にRAグループに入社し、別部署で電話オペレーターとして勤務している内田に尋ねる。

「嵐のコンサートに行ったの!」というのが彼女の休暇のハイライト。

私は嵐のグループメンバーが誰かさえ知らないのだが、「それ、すごいね!」と合わせる。

社内で内田を見かける事はほとんどなかったけれど、会うとこうして立ち話をする。今のところ、この職場で友人と呼べるのは彼女くらいだった。上司の奈美子に同じ質問をしようか迷う。彼女はいつも通りに席で宏美と話していた。

「5日と6日は忙しかったよ。」奈美子の厚い声が汗のように私の背中に張り付く。「混んだレストランの事で苦情を言ってくるお客さんが多くてね―」

奈美子はゴールデンウィーク中も働いていたのだ!

彼女が休暇中どれほど大変な思いをしたかを話すのを聞きながら、間抜けな事を聞かないでよかったと思う。

「わかるでしょう、連休は請負元の顧客にとって一番忙しい時だから、支えてあげないといけないの。」と奈美子が誠実に話す。

ここで長く働く彼女が課長から絶大な信頼を得ているのは不思議ではない。二人は煙草を吸いによく一緒に外へ出る。厳格なバチェラーでさえ、このお局には一定の敬意を示していた。もし奈美子が連休中に勤務していなければ今頃私達は山積みの業務に追われていると宏美に言われ、何だか申し訳ない気持ちになりながら上司にお礼を言った。

奈美子のお陰で私達メールチームはさほど忙しくはなかったが、今日は一日中電話が鳴りっぱなしだ。電話チームリーダーの友里が自席のバランスボールを頻繁に離れ、オペレーターらに指示を出しに行く。彼女はここで経験豊かな囚人看守のようで、私は何人かのオペラ―タ―が彼女に許可を得てトイレに行くのを見た事がある。

「これ前に説明しましたよね。どうしてお客様にそんなふうに答えたの?」

両耳を手で覆って歌いでもしない限り、友里のきつい声は耳の奥まで侵入してくる。

「すみません…」オペレーターの謝罪が続く。

「すぐお客様にかけ直して謝って下さい。今すぐに。はい行って。」

指令を出すと、チームリーダーは平然と彼女の業務、録音されたオペレーター達の通話内容のチェックを再開する。今のところ一人のオペレーターが明らかに友里に嫌われていて、私はその女性の高い自信に満ちた話し声を覚えていた。

17時になると殆どの電話オペレーターらは退社し、ようやく事務所が静かになった。18時まで勤務している笹川だけが時々電話を取っている。

「笹川さんは、とてもよくやっています。」友里が課長に報告するのが聞こえてきた。彼女はこうして課長の席に来て、よく話している。

笹川が電話で話すのを聞きながら、「そうだね」と課長が小声で認める。

「入社してまだ二ヶ月なのに、本当によく学んでくれてます。それに比べて前田さんはダメ。」チームリーダーが囁く。「前田さんには次回から来てほしくないです。私の指示をちゃんと聞かないんですよ。」

「前田さんって、11時から始めてる人だっけ?」

事務所中の皆が、友里が誰に一番怒鳴っているか知っているのに、課長だけが知らないようだ。

「いいえ、前田さんは去年もここで働いていた人です。一度辞めて、三月に今のプロジェクトのために戻ってきた方。」

「とにかく、誰に次回来てもらうかは派遣会社と話さないと。」バランスボールの上で軽く体を揺らす課長は関心なさそうだ。

「もちろん。」苛立ちを抑えて友里が微笑む。「ただの提案ですよ。」

ITCMを思い出してしまう。カレンがフレッドの耳元で、次年度から誰を排除してほしいか囁く姿。こういう話は聞きたくないのに、課長の正面で部長の斜め前の席にいるなんて、私は何かに呪われているに違いない。

***

2019年5月13日

RAでの私の業務は聞こえほどつまらないものでもない。メール文の切り貼り作業はAIに任せたいくらいだが、客から寄せられる苦情を読むのは面白い。書き言葉は時にヒステリックな叫びよりも力強いから。

今日は、「客が新作パンの試食をしようと近づく度にケースを閉じてしまう、若くふてぶてしい意地悪店員」についての苦情メールを読んだ。

その客はベーカリーレストランでコーヒーを飲んでいたのだが、彼女が席を立ち近づくのを見ると、店員はわざと試食ケースを閉じてその場を離れるのだという。「パンを試食したくて三回も席を立ったのに、結局トイレに行ったりお水を取りに行くふりをしなければならなくて、すごく恥をかきました。」

苦情を読むのは「面白い」という先の言葉に補足すると、決して誰かの嫌な経験が愉快なわけではない。むしろ私は他人に感情移入し同じように怒りを覚えるタイプだから、これが「面白い」の意味だ。彼らのメールを読んでいると私は場面を想像し、その物語の世界に引き込まれる。私は物語が大好きなのだ。

「信じられなければ、レストランの監視カメラを見て下さい。人生でこんな差別を受けるとは夢にも思わなかった。」彼女の苦情メールはこう締めくくられている。「アメリカで人種差別されている黒人の気持ちがよくわかりました。」

いつものように定型文から取った文章を組み合わせて、お詫びのメールを書き始めた。自分の言葉で書き、客の不快な経験を一緒に批難できたらいいのにと思う。本当にその店員が意地悪なのか、それとも何かの誤解なのかは分からないが、私達の仕事はとにかく客の苦情を受け止めることなのだ。

「この度はご不快な思いをおかけし…」という初めの文章を貼り付ける。この日本語の表現、実はおかしい。

「…ご容赦いただけますようお願いいたします。」これも不自然だ。よく見ると、私達のメール定型文は機械的だけでなく変な日本語が多い。でも私が気にする事ではない。

第三の目で上司の広い背中を見やる。厳しい先生だけれど、今夜の小田先生のバレエクラスに参加したかった。

「第一承認のフォルダにメールを提出しましたので、お時間がある時にチェックをお願いします。」いつものように同僚達のおしゃべりBGMの合間を見計らって頼む。

「わかった。」と奈美子は答えても、すぐにはチェックしない。彼女は万年多忙なのだ。世の中には、どう頑張っても時間管理ができない人達が存在する。

「何でこんなに忙しいの?!」

背後の苛ついた声を聞きながら、今夜のバレエは諦めるしかないと自分に言い聞かせた。

客達は週末に嫌な経験をして苦情を寄せてくるから、だいたい月曜が一番忙しい。だが予想外に今日は定時に上がれた。康江が私のすぐ後に事務所を退室するのも珍しい。

「ずいぶん速足だけど急いでるの、恵ちゃん?」四ツ谷駅に急ぐ私に康江が追いついた。

私は出社する時はいつもノロノロ歩きで、帰りは飛ぶ鳥のように逃げ去る。

「ちょっとね、ジムに行くから。」と答えた。「19時からのクラスに参加したいの。」

「へぇ、いいね。」と康江が微笑む。「楽しんで。また明日ね。」

こんなふうに誰かに「楽しんで」と言われると、世界中の人が私の幸福を願っているような気になる。

金曜のクラスより小さいスタジオで行われる月曜のバレエクラスでは、一人一人の生徒にスポットライトが当てられる。先生から隠れられる支柱もない。

「富士山の形を描くように腕を動かして。」小田先生の安定した声が四方の壁を同時に打つ。きっと風邪をひいた時くらいしか彼女の声が震える事はないのだろう。

「富士山のように、ですよ。いいですか。」私の不安定な腕の動きが、その切れ長の目に留まる。「それは富士山じゃないですね。」

先生がもう一度雄大な富士山の動きを示し、私は真似をする。だが、「いいえ、それは高尾山ですね。」と先生は不満足な視線を私に向け、他の生徒たちは一体誰が高尾山なんて描いたのだろうと周囲を見回す。高尾山の形はどんなだったかと考えていると、小田先生にもう一度同じ動作をするよう要求された。

「それは高尾山。」もどかしそうに首を振られる。「もう一度やってみて。」

先生の苛立ちを恐れるほど、私の腕はクラゲのようにふにゃふにゃ動いてしまう。今高尾山の形が分かるような気がした。きっとすごく複雑な形に違いない。

「まだ高尾山ですよ。」

皆に恥ずかしい動きを見られ、私は逃げ出したくなる。もう高尾山でいいです、と心の中で叫んだ。富士山には一度も登った事はないけれど、地元の高尾山には小さい頃から何度もハイキングに行ったし。それに、高尾山の形を描く方が富士山よりはるかに難しいではないか。そう、私にバレエ魂が無いのは分かっている。

2019年5月15日

奈美子は私のメール文に一つでも定型文から拾っていない言葉があれば必ず見つけ出す鋭い目を誇っている。

「やっぱり、そうだと思った。」自身の探知能力を確信し、勝ち誇ったように奈美子が言う。「見慣れない言葉だと思ったら、やっぱり恵ちゃんの言葉だった。」

もし彼女が一流の定型外言語探知機なら、私は受賞済みの観察者だ。常に上司を観察し、その日の計画を立てる。水曜はジムの日ではないが今夜は19時半に冷蔵庫の回収が来る予定だから、第三の目でしっかりと奈美子を見張らないと。この職場で一ヶ月間の訓練を経た私の時間管理は功を奏し、今日は18時半までに事務所を退室できた。

帰宅電車の中で、冷蔵庫を買い取りに来る予定の女性に約束通り会えるとメールを送る。安堵のため息が大きくて、隣の乗客に振り向かれた。毎日上司の許可なしでは終業できないなんてストレスだ。RAでは派遣社員以外は皆夜遅くまで働いているが、会社の奴隷になると考えただけで息が詰まりそう。夕方に用事がある時だけでなく、毎日八時間働きたい。座り続けて腰を痛めるのに十分長い時間だ。バランスボールが欲しいと頼むべきか、否、そういう問題ではない。一日に少なくとも二、三時間は自分のために使いたい。こう思う私は怠慢社員なのだろうか。

一つ扉の冷蔵庫を両腕で抱え、待ち合わせ場所の荻窪四丁目郵便局まで運ぶ。女性はカートを持って現れ、私の冷蔵庫に満足した様子だ。

「新品みたいに見えますね。サイズもちょうど良いです。」と彼女が言う。「大きい冷蔵庫に買い替えたのですか。」

「あぁ、はい。」もごもごと答えた。「まぁ、そうです。」

皆から同じ事を聞かれる。この感じの良い女性に冷蔵庫無しの生活を始めたのだと言って、わざわざ不審がられる事はないだろう。姉の慶子に話したら、カルトに洗脳されたのかと言われたし。

冷蔵庫がなくなった今、私の台所はまるで違って見える。新しい食器棚の向かい側の冷蔵庫があった所に白い小さなテーブルを広げ、そこに野菜と果物用の二つの茶色い籠を置いた。素晴らしい!絵を描きたくなる景色だ。

***

2019年5月23日

RAの社長は小柄で童顔の60代男性だ。眼鏡奥の小さなビーズのような目は、亡くなった祖母を思わせる。その小さな体と柔らかい声のせいで、私は時々人の大きさをした黒い鼠が単なる人間である筋肉質のバチェラーの隣にいるような幻覚を見る。

「社長はどのメールの事を言っているのですか?」バチェラーの声は今朝から苛ついていた。この部長は社長にさえ微笑む事がない。「全部読みましたが、どこにもそんな事触れられていませんでしたよ。」

黒鼠が音もたてずに人間のデスクにやって来た。「ではちょっと、メールボックスを見せてみて。」喧嘩腰な人間の態度をまるで気にしていない様子だ。「あぁ、これだ。」小さい方がパソコン画面を指さす。その声色は全く変わらない。

私はちらと、バチェラーの顔がかすかに赤らむのを見た。

「あ、これですか。」と人間がこぼす。「すっかり見落としていました。社長、これは…」

「いいですよ。この業務は来週までにしないといけないので、取り掛かってもらえたら助かります。」

黒いスーツを着た鼠は既に隣の自室に向かっていた。ここで立ち上げれば、部屋を仕切る壁の上側のガラス部分を通して社長が自分のデスクにいるのが見えるはず。彼はいつも自室で物静かにしていたから、私は時々立ち上がって鼠が箱の中にいるのを確かめていた。最近別の業務でバチェラーが外出中に、社長が国際プロジェクトについて私に指示を出すようになっていたから。私は初め会社の最上位の人と働くのに抵抗があったが、今はむしろ喜んでいる。

「石川さん、こちらへ来てこの英語の文書を見てくれませんか。」社長はこんなふうに気軽に私を呼ぶ。鼠の顔は表情が無いのだが、いつも穏やかで突然津波が起こる事はないから安心できた。

従業員らがリラックスし始めたその午後、社長が自室から出てきて誰か子猫は欲しいかと聞いてきた。どうやら鼠は家で猫を飼っていて、その猫が出産したらしい。可愛い子猫の写真を見ようと女性社員達が瞬く間に社長を取り囲む。小柄な社長の姿は背の高い女性らに完全に隠されてしまったが、彼がどの色の猫が何という名前かを説明する声が聞こえてきた。結局ほとんどの社員がアパートでペット禁止だとか既にペットを飼っているという理由で断る中、電話オペレーターの笹川だけが二匹の子猫を引き取る事になった。社長も笹川も嬉しそう。

「いいわね、笹川さん!」奈美子、宏美、康江が羨ましそうに口を揃える。

鼠が去ってすぐ、外からバチェラーが戻ってきた。その苛ついたタイピングの音に、いつも私の呼吸は短くなる。彼がむしろ気さくに康江や課長と話しているのを見ると、実は慢性の片頭痛持ちという訳ではないのだと分かる。繊細に空気を読んで宏美も時折会話に加わるのだが、私は常時沈黙を保つ。私は今波が穏やかだからといって海に出ていくタイプではない。津波がいつやって来るかわからないと思うと、常に海を避ける。

実際、バチェラーは頻繁に津波を引き起こした。ちょうどこの日の午後のように、電話一つが事務所中の穏やかな空気を一変させ得る。その電話を取ると、バチェラーの顔がみるみるうちに寺の門に立つ仁王像のようになった。

「今やっている事を中断して、すぐ俺のデスクに来るように。」憤慨した部長が別室からある従業員を呼び出すのを聞くと、康江と宏美はすぐさま自分達の業務に戻る。

ある電話オペレーターのメール文章が会社の重要な顧客に対してあまりにも砕け過ぎていると、その厳かな顧客が苦情を寄せてきたようだった。

「本当に、いや本当かよ…」バチェラーが苦悩して首を振る。「これ、成人した人間が会社で書くメールか?」

私は手元のキーボードに視線を落としていたが、若いオペレーターの項垂れた頭が視界に入る。20代前半か、ともするとまだ10代の青年に見えた。

「もしかして何、冗談のつもりだったのか?これを書いた時、何考えてた?」バチェラーの尋問は何時間も続く。「答えろよ、ほら。何を考えてたんだ?」

青年は謝る事しかできない。彼が冗談のつもりだったようには決して見えないが、バチェラーはメール文を一つ一つ拾い続ける。

-と思ったんでしょうが、って真面でおまえ、こんな風にお客様と話すのか?ラインで友達とチャットしてる感覚だったんだろう、え?大事なお客様に、-したらいいんじゃないですかね、なんて書くか?」

「本当に、すみません…」オペレーターが謝る。「ちゃんと敬語を勉強します。」

そう、彼に必要なのは適切な研修だろう。まだ短い社会人生活の中で敬語を使い慣れていない若者は大勢いるのだ。私は以前ステンレスの容器を電子レンジに入れるような青年と働いた事があるが、単に彼は知らなかっただけなのだ。

「そうするべきだな。」バチェラーがピシャリと言う。「子供じゃないんだ。学ばないといけない。この社会で働く人間として失格だ。人間として失格!」

人間として失格?

「普通の大人はこんなバカな文章はお客様に書かない、わかるか?」

バチェラーの毒舌ぶりには感銘を受けそうだ。夫婦喧嘩中の母のレベル。会社で上司は社員の誤りを指摘し、警告し、正し、教育するのは分かっている。だが、侮辱する事は?本当に上司は部下に何を言ってもいいのだろうか。

もしこの青年社員が人間失格なら、怒りを制御できずに教育され成長を奨励されるべき新人に中傷の言葉を投げつけるバチェラーも、人として失格だろう。そして、この部長を早々と嫌わずにはいられない私も失格人だ。アメリカの上司はもっと厳しいとキムは言うだろう。だがこういう上司達に私は慣れる事ができない。とても無理!

 

2019年5月31日

仕事の後西友荻窪店で内田とばったり会い、そこのナス置き場の横で一時間立ち話してしまった。

「笹川さんが上司にいじめられているのに、皆見て見ぬふりをしてる。」

私は今までこの事実を誰にも話したことがなかった。

「でも笹川さんはすごく仕事ができるって聞いたよ。私の上司もそう言ってるけど。」内田が驚いて言う。

私もついこの間まで友里が笹川を褒めるのを聞いていた。「いじめは最近始まったの。どうやって始まったか分からないけど…」

気づいたら、電話チームリーダーの笹川に対する態度はまるで別人のように変わっていた。

「少なくとも二度はこの説明をしたのは確かですが、あなたは忘れたと言うの?」友里の抑制された声は、噴火前の火山の様にものすごい力を秘めている。「はい?それが質問ですか?私に聞く前にマニュアルを読みましたか?私はあなた専属の指導者ではないの。」その鋭い口調は、周囲の人(少なくとも私)まで凍らせる。

「あの女、居眠りをしていたんだよ。居眠り!許せない!」

笹川が席を離れた後、友里が憤慨して宏美に話すのが聞こえた。すると、これが最近の彼女の人格急変の原因か。「笹川さんが居眠りをしているのを見た時、仕事をなめきっていると分かった。良い社員ぶってるけど、本当は怠け者なのよ。」

「居眠り?派遣社員のくせに良い度胸だね!」奈美子が息を呑んで会話に加わる。「笹川さんがそのタイプの生意気女とは思わなかった。」

これを聞き、退屈なメールパッチワークに半分眠りかけていた私の脳は叩き起こされる。

「何かの病気かもしれないよ。」康江が言う。「ほら、睡眠時無呼吸症候群とか。あの人達はよく数分間記憶を失うみたいだから。」

「そうかもね、彼女太ってるし…」女性達がクスクスと笑う。「でも、もしそうなら私に初めから話しておくべきでしょう。」友里はまだ怒っていた。

「…怒ってるの。私のチームの人は皆、怒ってばかりいる。」買い物籠を持ったまま、内田に言う。「お客さん達は怒ってるし、奈美子はそのお客さん達に怒ってて、上司達は部下に怒ってる。」

会社で唯一の友人である彼女に、もう一つ話したい事があった。ある朝笹川が客と電話で話している最中、突然彼女のパソコンがシャットダウンした。私は背中を向けて座っていたが、何が起きたか分かった。パニック気味に笹川は隣席の友里に助けを求めたが、「え、パソコンが突然切れたのですか?おかしいわね。そんな事が起こるの?」と言われただけ。友里は何かに忙しそうでバランスボールから立とうとしない。仕方なく笹川は課長の所へ行って、何が起きたか報告した。

「俺はIT社員じゃないから。」というのが彼の返答だった。「あなたのパソコンの事はわかりません。」納豆課長は自分のパソコン画面から目を上げさえしない。

「わかりました。ではどうやってIT社員の方に連絡したらいいでしょうか。」と笹川が尋ねる。

「あぁ、彼はまだいないよ。午後に出勤するから。」

哀れな笹川は静まり返った事務所内を見回した。皆全てを聞いていたけれど、誰も顔を上げない。上司たちが彼女を見捨てた今、他に誰が何をできるというのか。

私、新人の吃音社員が立ち上がり、笹川のデスクに行った。パソコンを直すのが目的ではない。皆分かっているはずだ。

「大丈夫ですか。私は機械に詳しくないですが、一緒に見てみましょう。」と言うと、笹川の引き攣っていた顔が一気に緩む。

「はい。電話中に急に電源が落ちてしまったんです。電話も切れて、見ていたデータが全部消えてしまいました。すぐにお客様にかけ直して謝りたいのですが。」

「それは大変ですね。」

パソコンと電話のケーブルをチェックしようと屈んだ時、友里の冷たい視線を感じる。

「恵ちゃん、ID番号を入れる作業、終わったの?あれ、すぐ必要なんだけど。」奈美子が偉そうに聞いてきた。「恵ちゃんはIT社員じゃないんだから、今それをする必要はないんじゃない?」

「すぐ終わります。」私は従順な笑みを顔に釘付け、笹川のパソコンのコードを抜く。「電源を入れ直して再起動してみましょう。」

一分後には私は自席に戻ってID番号の切り貼り作業を再開し、笹川のパソコンは何とか復活して彼女がお礼を言ってきた。

「大丈夫ですよと笹川さんに答えた時、奈美子に睨まれた。」と、ナスが欲しい買い物客のために壁側に少し移動した内田に言う。「笹川さんが困ってるのに皆が無視しているのを見て、ショックだった。大丈夫ですよ、IT社員が来るまで待ちましょう、とか誰も一言も言わないの。」

「皆でグルになって、いじめてるんだね。」内田は既に状況を把握したようだ。

「そう、それで私にも同じようにしてほしかったみたい。皆が笹川さんの影で彼女の悪口を言うのを私が聞いていると知っているから。」

しかし同僚の女性達は、石川恵が上司達に見捨てられた怠惰な居眠り女を無視しないと分かった。それどころか、その悪人を助けようとしたのだ。恵は頭がおかしいのか、もしや反抗的なのだろうか。いずれにしても、彼女がここに長くはいることはないだろう。

内田が去るのを見送った後、私はナスを三個取って買い物籠に入れた。

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