第二章 2019年6月

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2019年6月6日

最近、友人のサイモンを模範にしている。彼はちょうど十五年間勤めた会社から転職したところで、新しい同僚たちは前職の仲間達ほど親切ではないが気にしないという。口で言うだけでなく、彼は本当に何を気にして何を気にすべきでないかをわきまえているのだ。私もサイモンのようになりたくて、彼の「僕は僕の事で忙しいんだ」口調を真似て、声に出して一人こう言ってみた。「同僚達と友達になんてならなくていい。事務所にいる間一緒に働くだけなのだから。」

笹川は四日連続で会社を病欠している。

「三日間も休んだのに、まだ腹痛があるのか。飲んだ薬は効いてないの?」課長が電話で笹川に吠えている。「それ効いてないなら、別の薬にしたらどう?今どんなに職場が忙しいか、分かってますよね。」

初めてこういう課長の言葉を聞いた時は衝撃を受けた。私の席にいると嫌でも聞こえてくる彼の辛辣な口ぶりがショックで、「病気になった従業員に対してあんなに怒る上司は見た事ない!」と古い友人の亜実に訴えた。だが次第に、課長は単に病欠の電話が多くてうんざりしているだけなのだと分かってきた。従業員らが自分を嫌い避けていて、病気を装って困らせようとしているとさえ思っているのかもしれない。

「笹川さんからだった。腹痛でまだ食べられないらしい。」と課長が吐き捨てるように、電話チームリーダーの友里に告げる。

「彼女、ずいぶん痩せたでしょうね。」という冷ややかな返答だ。

「ははは、そうだよね。次出社した時痩せた姿を見るの、楽しみ。」笹川の腹痛は仮病で、復帰した時彼女の体型は変わっていないと確信しているかのように、康江も冷笑に加わる。皆、笹川が上司にいじめられ、誰も助けてくれないから出勤したくないと分かっているのに。事実いじめが始める前は、彼女は毎日時間通りに出社していたのだから。

「彼女、このまま辞めたりしないよね?」宏美が疑い出す。こんなふうに会社を退職した社員が過去に大勢いるようだ。

「いやいや、まさか。社長から二匹も子猫をもらったばかりだから。」

奈美子のこの言葉が理に適っているかのように、「そうだよね。まさか辞めるはずがない。」と女性たちが口々に言う。「この会社の社長から子猫をタダでもらっておいて、逃げ出すわけはないよね。」

私には笹川が子猫の里親になった事とRAを退職するかもしれない事の間にある繋がりが、全く見えない。それなのに、既に彼女たちが私の事を噂する姿を想像している。「恵ちゃん、会社の健康診断をタダで受けた後に退職したんだよ。」

どうして私はこんな会話を想像しているのだろう。この会社を辞めたいのだろうか。

頭にふと浮かんだこの考えを消し去ろうと、大声で「否!」と叫んだ。いや、私は辞めない。新しい事務所で楽しく過ごすのだ。たとえ業務が退屈でも、上司が残業好きでも、課長が病気の従業員に怒鳴っていても、そして同僚たちが、同僚たちが…良い人たちではなくても―、私は大丈夫。

4月の始め、同僚たちが皆良い人だと梨花にメッセージを書いたのを思い出す。それが間違いだったと認めたくない。梨花に周囲の人達に馴染めないのは「私側の」問題だと思われたくない。

「サイモンのように振る舞え。」と自分に指令を出す。同僚が良い人でなかろうが気にするまい。私は彼女たちの友人ではなく、ただの同僚なのだから。

***

2019年6月7日

RAのカスタマーサービス部に新しい女性社員が加わった。彼女が事務所の雰囲気を換えてくれると期待して喜んだものの、すぐに実は彼女は全くの「新人」ではない事が分かった。3年前までここで働いていたらしい。

「智ちゃん、こんなに綺麗な若い女性になって!」宏美は元同僚が戻って来て嬉しそうだ。

「本当。前にここで働いてた時はまだ二十歳だったもんね。それが今では、見てごらん―」奈美子は、長年離れ離れになっていた年老いた乳母のような口調だ。「今日は会社中の男達がソワソワしてるよ。」

確かに若い男性社員たちは智子のデスク脇を通る度、彼女の波打つ長い髪と漫画のヒロインのように大きく輝く目に視線を走らせている。加えて、彼女は元同僚だけでなく厳しい上司達に対してさえ明るく愛想が良い。ただ、私を見る時はその茶色いビー玉の瞳に冷たい無関心さがあった。恐らく見知らぬ人に対しては警戒する性格なのだろう。

笹川は今日事務所に出勤していた。相変わらず接客のプロらしく丁寧に電話で話すのを聞いていると、彼女の強さが見える。吃音者として、安定した話し声を持つ人を敬わずにはいられない。

「彼女、全く変わって見えないよね?」

女性たちが笹川の影で囁く。「4日間も食べなかったら、少しは痩せるんじゃない?」

智子も既にグループの一員で、どうして私が彼女らの楽しいおしゃべりに加わらないのか不思議そうにこちらを見ている。

「そしたら彼女、病欠する前はもっと太っていたんですか?」細身の智子が尋ねる。

「違うよ、智ちゃん。笹川さんは仮病だったの。体型、全然変わってないもん。」

月曜に開かれた月例会議で、社長が皆に時にはリラックスして同僚達と世間話をするのも大事だと話した。リラックスして世間話をしたいのは山々だが、どうやってこの会話を楽しめというのか。奈美子の日常的な客に対する愚痴大会にも参加する気にはなれない。テレビを見ないから有名人の話にも入れないし…

ただ業務に集中しろ、と自分に指示する。サイモンになれ。

不必要な事は言わない冷静沈着なIT技術者としての自分を思い描く。こういう物静かなタイプは賢くて頼りになると、皆は思うだろうから。

「-あぁ、石川さん?…いや、彼女は大人しすぎるよ。…全然。残念ながら、そういうタイプじゃないね…」

誰かが私の名前を発音するのが耳に入ってきた。私の静かな態度をまるで敬っていないように聞こえる。なぜ静かな男性は秀才として頼られるのに、静かな女性は皆からがっかりされるのだろう。不公平だ。

***

2019年6月10日

父に誕生日のメッセージを打ちながら、上司の奈美子が既にどれほど嫌になってきているか考えていた。もちろん父は職場の愚痴を言う相手ではないのだが、誰かに聞いてほしくて仕方なかった。

私が悪いのだと思う。38歳の上司を「過大評価」すべきではなかった。奈美子に「お客さんへのお詫びの定型メールでおかしな部分を見つけたら、遠慮なく教えてね。」と言われた時その言葉通りに受け取り、以前から気になっていた事を指摘した。

「ご不快な思いをおかけし、というのはおかしいです。不快な思いをかける、とは言わないので、ご不快な思いにさせてしまい、とかご迷惑をおかけし、の方が良いと思います。」

すぐさま、この指摘はするべきではなかったと察した。この一文は全ての詫び状に含まれていて、何年間も使われているものなのだ。ひょっとしたら奈美子が書いたものかもしれない。さらに悪い事に、笹川が私に同意するように強く頷くのが見える。

「でも…これが間違ってるはずはないよ。この文は長年使われてるんだから…」奈美子がすぐにオンラインで調べ始め、その顔が青ざめる。間違いに気づいたに違いない。

「でも…今までのお客さん、誰もこれに触れなかったよ…」

当然だ、と心の中でつぶやく。日本語試験ではないのだ。誰が、特に受け取った詫び状にあるこんな些細な誤りを指摘するというのだろう。

「ほら、大した事ではないから。」と慌てて言った。「お客さんたちは書いてある内容を完璧に理解できるだろうし、こちらのお詫びの気持ちが伝わるかどうかが一番大事ですよね。」

「そう、だね…」

上司のふくよかな顔がまだ強張っているから、私は自分が指摘した事を後悔する。話題を変えようと、別の一文を取り上げてみた。

「-いただけますようお願い申し上げます、の方が変かもですよね。」と笑う。

「そうですね。いただけたら幸いです、が正しいと思います。もし―していただけたら、と、―して下さいというお願いを一緒には言えないですよね。」笹川が彼女のデスクから私に微笑んで言った。

奈美子は全く笑わず、わずかな二重顎の上の口を不満そうなN字型に結んでいる。

何てこと。私は何をしてしまったのだろう。

その日以来、彼女の私に対する態度は日に日に冷たくなっていった。事務所の凍えるようなエアコンの下で、その冷たく尖った指が私の薄い肌をつねり始める。

「ファイルがどこにあるか、前に教えたでしょう?自分で探して。」

前は「ごめんね。こんなグチャグチャのフォルダの中からファイルを見つけるの、大変でしょう。」と言っていたのに、奈美子はもう私を助けてくれない。それに、私たちの共有フォルダは何千もの「リスト」のような判別できないタイトルのファイルで溢れていて、本当にグチャグチャなのだ。すぐに私のノートは「何が何処にあるかリスト」で埋まり始める。

 「お父さん、誕生日おめでとう。」四ツ谷駅のフォームでメールを書いた。お父さん、影で同僚たちが私の悪口を言っているのが聞こえるよ。「恵ちゃんは一生懸命働いてない。ファイルがどこにあるか覚えようとしてないの。」と奈美子が言うのが聞こえる。「彼女、早く仕事を終えてジムに行きたいんだよ。」と康江が皆に、私が仕事の後四ツ谷駅へ速足で帰る事を報告する。「時々社長を助けているからって、私たちより上位にいると思ってるんじゃない。」宏美が意見を付け足す。

こんな場面は全部、私の妄想が暴走しただけのもの。だからお父さん、心配いらないよ。新しい職場で上手くやっていけるよ。心の中で父にそう言って、「お父さん、誕生日おめでとう。」の一文だけ送信した。

2019年6月14日

私達の社長、小さな黒鼠が最近私を頻繁に自室に呼ぶので、同僚との間でますます居心地が悪くなってきた。今朝は奈美子から電話を一本かけるよう指示された直後に鼠がどこからか音もなく現れて、「石川さん、ちょっと来てくれるかな。」と尋ねてきた。私にとっては奈美子の指示を後回しにする方が社長を待たせるより恐ろしいから、「すみません。この電話をかけたら、すぐに参りま…」と電話番号を押し続ける。

「私が電話する!」奈美子の荒い声が私を黙らせた。「電話の事はいいから、今すぐ社長を助けに行って。」彼女の目が、「あんた頭おかしいの?そんな電話のために社長を待たせようとして。」と言っている。

社長は穏やかに「もちろん、今やっている事が落ち着いたら来てください。」と申し出たが、私は奈美子に礼を行って席を立つしかなかった。

社長室で鼠はいつものようにその大きなパソコン画面を私に見せ、受信したメールを示す。彼は英文メールの内容を理解しているが、私とダブルチェックして私の意見を聞きたいのだ。

「そうすると、ロンドン支社の会計事務所は来月私が現地に行かないといけないかもしれない、と言っているんだね。」

鼠は感情を表さないから、彼がロンドン渡航の考えを喜んでいるのか困っているのか分からなかった。

「はい。銀行が社長との直接の面会を要求しているそうです。でも、対面の面談無しで口座を開ける銀行が他にあると言っていますね。」私はメールの内容を確認する。

「ふむ、来月か。」社長は考え込む。「予定が埋まっているんだが、我々はこの特定の銀行に口座を持ちたいんだよ。」

「オンライン面談はどうですかね。」と提案してみる。「公式の身分証明書だけでなく、会社のウェブサイトやイベントのパンフレットに社長の動画や顔写真があるのを見せるんです。スカイプで面談した時、社長を識別できるように。」

すると鼠は私にロンドンの会計事務所にそれを聞いてみてほしいと言い、「わかりました。」と私は喜んで答える。「すぐにメールを書きます。」

この穏やかな社長の前でも私の声は時々震え、自分の意見を聞かれて嬉しい時でさえ喉が前触れもなく閉じる事がある。だが彼の小さな丸い目は、「心配しなさんな。長い人生であなたのような人に会った事がありますが、気にしませんよ。私が気にするのはあなたがどう働いてくれるかで、今のところあなたはよくやってくれています。」と言っていたから、この社長の前で私は吃音をさほど恐れなかった。

鼠と比べ、上司の奈美子は私の吃音に対する恐れを倍増させる。自分のデスクに戻ると、奈美子が宏美とひそひそ話していた。

「お店の店長と話したら、そのお客さん、ここの電話受付チームにも連絡してたんだって。」奈美子が厳かに言う。「お客さんひどく心配してて、すぐに私達の返答がほしかったの。すごく大事な緊急の電話だったんだよ。」

私が改めて礼を言うのを聞くと、上司は宏美とのおしゃべりに戻る。彼女らの次の話題は新人の智子が美人なだけでなく、いかに覚えが早く賢いかだ。

「智ちゃん、すごくハキハキ話すよね。」と二人は褒める。「声もすごくきれい。」

肥満で自分の体を嫌いな人は、細い人への称賛を聞いて嫌な気持ちになるかもしれない。たぶん私は今そのムード。吃音者として、「ハキハキ話す」とか「きれいな声」という言葉には敏感なのだ。石川恵は顧客と電話で話す時にどもるから接客には適してないと、奈美子が部長に告げる姿を既に想像している。マイナス思考が暴走する。そしたら私は、ITCMに続いてまた解雇されるのだろうか。

メールボックスに課長からメッセージが届いているのに気付いた。来週の木曜に開かれるビジネスマナー研修の案内状だ。研修で教本を音読させられると分かり、恐怖が沸き上がる。ふと最後の一文に、「研修に出られない人は返信ください。」とあるのに注目した。研修が勤務時間外の18時半から行われるから、この一文があるのだ。

「18時半?木曜は仕事の後歯医者の予約があるんだけど。」康江が文句を言うのが聞こえたが、普段から20時近くまで残業している奈美子と宏美は研修の案内に全く驚きを見せない。研修が仕事の後行われる事はよくあるのか聞いてみると、「勤務時間中はすごく忙しいから、研修に時間を取れないんだよね。」と言われた。

課長に返信文を書いた。丁寧な文章で、毎日8時間以上の勤務は望んでいない事を明確にした。9時から18時までのデスクワークが私が効率良く作業できる限界だ。加えて、ビジネスマナーに気を付けている事を示すためにメール定型文にある不自然な表現も指摘した。

18時15分に後悔なく退社した。課長とバチェラーは私の返信文を有難がらないだろう。二人とも従順な社員だけに価値を見出す典型的な上司達だ。だが、もう自分が何を考えているかを知らせるべき時だと思った。嫌われる覚悟はできている。結局、二人には吃音の事を打ち明けられないのは確かだから。

***

2019年6月15日

雨の土曜日。長靴で杉並公会堂まで歩くのが好きだ。お昼時でも道はさほど混んでいないし、真っ直ぐの商店街に沿ってカラフルな傘が回るのを見て楽しむ。

今私の所属する小さな合唱団では、二曲を練習しているところだった。一つは「Have You Never Been Mellow?」で、この曲を歌う度に自分自身に問われているような気持ちになる。もう一つ、「七色アーチ」もまた私の今の日常が歌詞にされているかのように聞こえた。

『何度でも何度でも羽ばたける強さを信じて、』と歌詞が続く。そしたら、私はまた仕事を変えるのだろうか。

実はつい最近まで、自分は人生で一度も「本当に」歌を歌った事がないと気付かなかった。自分では歌っているつもりだったが、ただ音楽に合わせて歌詞を読んでいただけだ。特にメロディーを口ずさむのが好きだったけれど、それは歌う事とは違う。

初めて「本当に」歌を歌った時、私はこの合唱の仲間たちとここで「いのちの歌」を歌っていた。『生まれてきたこと、育ててもらえたこと―』の部分で涙をこらえ切れなかったが、皆楽譜を見下ろしていたから泣き顔に気づかれる事はなかった。どうしてこの合唱の指揮者でありピアニストである先生は、私が犬を亡くした直後にこの曲を選んだのかしらと思った。

小さい頃、演歌歌手が歌いながら感傷的になるのを見て梨花と二人で笑っていた。彼らの涙はテレビで見せるための偽物で、一流の歌手は美しく泣く練習をしているのだと思っていた。あの頃は「悲しみ」を知らなかったから。

いのちの歌以来、私はアナを想ったように誰かを想いながら歌う事を学んだ。ただ、問題は時々歌に心を占有され過ぎてしまうこと。

『もし君が傷ついて挫けそうになった時でも、頑張るその背中をそっと誰かが見ている…』

RA事務所で誰かがそっと私を見ているのだろうか。小説の中で一番予想外な人が王子様になるように、険しい顔のバチェラーが実は白馬の騎士で、私を助けてくれる姿を思い描く。でもすぐに、彼の意地悪い声が新人社員に「人間として失格」と言うのを思い出した。

ダメだ、と首を振る。彼のはずはない…

「新しい曲の楽譜、持ってこられなかったんですか。」

顔を上げると、奈津が優しい表情で私の様子を伺っている。

「これどうぞ。予備がありますので。」と言って、「旅立ち」の楽譜をくれた。私がまだ「七色アーチ」の楽譜を眺めている間に、他の皆は次の曲を歌っていたようだ。恥ずかしい。

合唱練習の後は西友で食品を買い夕方ジムに泳ぎに行く、これが私の最近の土曜日だ。時々プールで久美子と会ったが、私が小田先生のバレエのクラスから脱落して以来、二人で待ち合わせてプールに行く事はなくなった。

家で今朝受信した梨花からのメールを開く。

「今、恵とアナの絵を描いてるよ。来年のカレンダーを作るんだ。」

うそ。彼女また私と亡くなった犬を描いているの?

自分の即座の反応に罪悪感を覚える。妹の優しさを煩わしいと思うなんて、私は悪い人間に違いない。

「今の所すごく良く描けてる。誕生日にあげるからね。」と嬉しそう。アナが他界して以来、梨花は私を慰めようとアナの絵をたくさん描いてくれた。妹は人に何かをしてあげるのが好きな優しい子なのだ。ただ絵を描くのが好きというのではなく―。

「わー、ありがとう!楽しみにしてる。」と返信した。

他に何と言えるだろう。もし「実はもう部屋にこれ以上絵を飾る場所がないし、正直アナと自分を四六時中見ていたくないし、もっと言うと絵の中のアナも自分も実際と似ていない。」なんて言ったら、妹は一生口をきいてくれないだろう。

携帯電話を置き、パソコンを立ち上げてスカイプでキムのメッセージを読む。彼女は忍耐強く私のブログを読み、時々アドバイスをくれていた。

「次のブログを読むの、楽しみにしてる。」とキム。

本当にそう思っているのだろうか、とふと疑問を持った。否、ただ私にやる気を出させようとして言っているだけだ。私はまだ2月の日記を書いていて、内容は暗くてつまらない。本当は私が梨花にもう絵を描かないでほしいと願っているように、キムも私にブログを送るのを止めてほしいと思っているのかも。しばらくの間、自らのこの考えに落ち込んだ。

 

2019年6月19日

RAで私がリラックスできるのはお昼休みだけだ。幸い今日は内田が休憩室の小さなテーブルにいた。

「恵、元気にしてる?」と聞かれ、私は言葉を選びながら答える。

「私は元気だけど、最近周りでは皆咳してる。」特に課長は酷い咳と鼻水に苛まれていて、私達の席の真上にある納豆臭いエアコンのせいではないかと私は疑っていた。

「特に私達の事務所は空気が悪いの。」

「そうなの?」と内田が尋ねる。

「そう、わかるでしょう―」彼女が私の示唆している事がわかるよう顔をしかめて見せた。ここでは西友にいる時みたいに大声では話せない。薄いパーティション越しに、誰かに聞かれてしまうかもしれないから。「そのうち私もうつされると思う。」責め口調で言った。

内田は私が咳の事だけを話しているのではないと察し、気の毒そうに見てくる。私と違い、彼女は親切な上司や同僚達と一緒に別部署で楽しく働いているのだ。

私がデスクに戻るやいなや、周囲の四人の女性たちが一斉に席を立つ。皆でお昼に焼き肉を食べに行くのだと、嬉しそうに康江が言った。

「また後で。お昼楽しんできて。」と私はいつも通りに笑顔を作る。

ずいぶん前から、康江は私をお昼に誘わなくなっていた。気にしない。奈美子と何か関係があるわけないし。ふと、焼肉の煙越しに三人の女性たちが、奈美子が私の悪口を言うのを同情しながら聞いている様子を思い描く。

焼肉ランチを楽しんだ後でも、奈美子は私が書いたメールについて不機嫌だった。

「これらの、このような、そのような、という言葉は、お詫びメールの中で使わないように言わなかった?」

今、そう言われた事を思い出した。だが、何百もの理由不明の規則の中の、ただ一つではないか。

「すみません、前に教えていただきました。」と謝ったが、「でも、これらの、という言葉を使うと、同じ言葉を繰り返すより分かりやすい文章になります。」と挑んでみる。「禁止された言葉を使えないと、『ハンバーガーの焦げたベーコンとふやけたパンについてお詫び申し上げます。…大切なお客様に焦げたベーコンとふやけたパンのハンバーガーをお出しするとは、とんでもない事でございます…。焦げたベーコンとふやけたパンのハンバーガーについてのお詫びの印として…』のような文章になってしまいます。」

奈美子も一緒に笑うだろうと期待して微笑んだが、彼女の顔は石のよう。

「だから?」と、まるで判断に必要な証拠が不十分というように尋ねてくる。

だから、「どうして、これらの言葉を使ってはいけないのか解りません。これらの、あれらの、このような、を使うと同じ長い名詞を繰り返さなくて済みます。その方が読者にも親切ですよね。」

「いや、」奈美子は頑として言い張る。「恵ちゃん、これは規則なの。これらの言葉は使わないの、わかった?」

「どうしてですか?」

「私が使わないと言ったら、使わないの!」

彼女の大声にショックを受けた。怒らせるつもりはなかったのに。

「すみません。これらの言葉は使いません。ただ、どうしてだろうと思っただけなんです…」

奈美子は既に椅子を回して私に背を向け、フォルテでピアノの鍵盤を弾くようにパソコンのキーボードを叩きつけている。以前、私は日本の事務所で上手くやっていけると思ったが、もはや完全に自信を失くしてしまった。上司の指令に「疑問を持たずに」従うのが、基本的な決まりのはずだったのに。そうしたら、私はもう決まりを破ってしまったのだろうか。でも単に質問しただけだ。もし答えられなければ、奈美子はただ首を振って「理由は私にも分からないの。私が入社した時に既にあった規則だから。」とか言えばいいではないか。それで二人で笑って、将来のために一緒に文章を改善しようと話したりしたらいいのでは?

上司の心を読もうとするのに、だんだん疲れてきた。

「彼女の事は気にするな。自分の業務に専念するんだ。」とサイモンなら言うだろう。でも奈美子の承認無くして私は業務を終えられないのだ。今日は18時に仕事を上がれないだろう。全ては私の技量よりも上司の機嫌次第だから。

「完了した業務にマーカーを付ける作業、終わった?」と彼女は18時に聞いてくるだろう。

彼女みたいに20時、21時まで働く社員がいるから、多くの業務は18時時点でまだ進行中だ。ある日、17時50分に私は完了した業務にマーカーを付け終えたと奈美子に報告したが、後で彼女は二つの完了業務にマーカーがされていないとして私を嘘つき呼ばわりした。「嘘つき」という言葉を使ったわけではないが、私に嘘を言うなと言ったのだ。

かなり落ち込んだ。一つの業務は17時56分に完了し、もう一つは紛らわしい複数の同じ業務名のせいで単純に見落とされただけだったから。奈美子の罠ではないか、と思ったくらい。

「できるだけ早く家に帰りたいのは分かるけど、きちんと仕事をして。」と彼女が事務所内の皆に聞こえるような大声で言う。五十個以上の業務にマークを付けてきて二つだけ見落としたからって、仕事を雑に行う怠け者社員みたいに言われるのだ。

誰か教えて。もしかして私はいじめを受けているのではないだろうか。

***

2019年6月21日

バチェラーが奈美子、宏美、私と午後に個別で面談をしたいと言ってきた。面談の内容については触れなかったが、彼が酷い頭痛を患っているように見える時は誰も何も聞かない。

私の番が一番先にきた。小さな会議室に、生真面目にノートとペンを持参する。仕事はどうかと尋ねられ、順調ですと答えた。次に何か話したい事はないかと聞かれたので、国際プロジェクトの業務がとても楽しいから業務量が増えたら嬉しいと希望を伝えた。

「もう少し英語を使う業務を期待していました。」とためらいがちに言ってみる。「それがこの職務に応募した理由でしたので。」

実際、採用面接の際バチェラーは私の主な職務は国際プロジェクトの方で、この新規業務が軌道に乗るまでの間は国内のカスタマーサービスチームを手伝う事になる、と説明していたから。

 「何を言おうとしているのか、わかるよ。」と部長が顔をしかめる。と言っても、元々怖い表情からその変化を捕らえるのは難しかったが。「国内のカスタマーサービス業務にあまり真剣に取り組んでいないと、石川さんの上司から聞いてる。」

ショックで言葉を失った。

「石川さんは社長を補佐する業務を優先していてメール業務をおざなりにしていると聞いたよ。確かに面接の時、国際プロジェクトをメインに働いてもらうと伝えたけれど、今は日本のカスタマーサービスをもっと学んでほしいと思ってる。なぜなら、国際プロジェクトでは―」

「私は業務をおざなりにしていません。」こらえきれず、そう言った。

この偉大なバチェラーが途中で話を遮られるのが大嫌いなのは知っていたが、裁判でさえも相手の弁論中に「異議あり!」と叫ぶのは許されるではないか。

「最後まで話させてもらえるかな?」と部長は私を睨みつける。

「すみません、続けて下さい。」と謝った。

「石川さんには当分の間、奈美子さんの下で国内のカスタマーサービスについてもっと学んでほしいと思っている。国際プロジェクトで将来政府と交流する事があるだろうから、その時に丁寧な言葉遣いができるよう学んでほしいからね。」

当分の間奈美子の下で?…と声に出さずに叫ぶ。丁寧な言葉遣いどころか、邪悪な心の人間になってしまいそう。

「…それと、石川さんは国際プロジェクトで社長の役に立っていると思っているかもしれないけど、実際社長はそう思ってないから。まだまだ学ぶ事が多いんだよ。」

社長はそう思ってない…のか。

「それで、この先、2、3ケ月は今と同じ業務量で続けてほしい。わかりましたか。」

「わかりました。」 異論を唱えても無駄だと察して頷く。彼が「あぁ、それから石川さんが課長に送ったメールについてだけど、我々は今のメール定型文を変えるつもりはないから。」と言った時、私は首になるのかとさえ感じた。こう話すバチェラーは、どこか勝ち誇って見える。意地悪い言葉を発する時ほど彼が生き生きとして見えるのは、私の被害妄想だろうか。

「たとえ正しくない日本語を含んでいても、長年この定型文を使ってきて請負元の顧客たちはこれで満足しているから。定型文を変えるとなると顧客の意見を聞かないといけないの、わかるよね?」

「わかります。」顧客の意見を聞くのがさほど難儀なのか分からなかったが、理解を見せた。「一番大事なのはお詫びの気持ちをお客様に伝える事ですから。細かい言葉はそんなに重要ではないです。」

「その通り。」バチェラーは私の返答に嬉しそうだ。「定型文の中で敬語が二重三重に使われている事にも触れていたね。慇懃無礼って知っていますか。後で辞書を引いてみて。実は我々の顧客はこの二重三重敬語が好きだから、我々はあえてこれを使ってるんだ。」

慇懃無礼とは、丁寧な言葉もあまり重ねて使われるとむしろ失礼に聞こえる、というもの。これを指摘したのに、彼は失礼に聞こえても構わないと言っているのか。

「なるほど、そうなのですね。」と無意味な面談を早く終える方を選んだ。事実、私が気にする問題ではないのだから。余計なお節介をやくな、恵。なぜサイモンのようになれないのか。

私が黙り込むと、面談はスムーズに進んだ。バチェラーは独唱にすっかり満足しているようで、面談を終える直前に突然こう述べた。

「本当は、石川さんが業務をおざなりにしているという意見には私は同意していないよ。これまでの3ケ月間、石川さんが一生懸命メモを取って業務を学ぼうとしているのを見てきたから。」

今まで見た事がない小さなホクロでも探そうとしているみたいに、部長の怖い顔を眺めてしまった。彼の言う通り、私はどんなに価値が見出せない業務でも馬鹿みたいに真剣に取り組んで皆を喜ばせたいと思う人間なのだ。

「はい。いつも真剣に業務に取り組んでいます。でも、どうして奈美子さんにそう思われたのか分かるかもしれません。」

 奈美子と違い、自分はいつも18時までに業務を終えようと努めている事を伝えた。作業が早い分、雑に業務に当たっていると誤解されているのかもしれないと。

「実は、この会社ではもっと残業を減らさないといけないんだよな。」というのが部長の意外な返答。「知っての通り、政府が今年度から働き方改革を唱えているだろう。」と独り言のようにつぶやいて、面談を終えた。

次に奈美子が会議室に呼ばれる。私はデスクに戻り自分の業務を再開したが、その日はずっとバチェラーの意地悪い声が頭から離れなかった。

「実際社長はそう思ってないから…」

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