第二章 2019年7月

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2019年7月5日

友達から「面白い人」だと言われると、本当は「変人」の意味で言われていても愉快に感じる。特に「三種の神器」を崇拝している年配の友達が、私がその一つも持っていないと知った時の呆れ顔を見るのが好きだ。

「すみませんが、その番組の事は知らないです。テレビを持っていないので。」いつも、まずテレビから始める。

「そうか。今の人達はYouTubeとかを見るからね。」と彼らは微笑むだけ。

「…あ、アパートの近くにコインランドリーは無いと思います。毛布はいつもバスタブで洗っています。洗濯機は持っていないので。」

「そしたら、毎日服を手洗いしているの?」彼らは感心したように言う。

「…ありがとうございます。でも、今の時期にこのケーキは長く取っておけません。家には冷蔵庫が無いので。」

「…えっ?」

友人達の驚愕した顔を思い出し、一人でクックと笑う。でも時々、自分はもしかしたら「本当に」変人で、誰も私が作る夏用の冷水ラーメンの素晴らしさを理解してくれないような気がする。そんな時は「少しだけ」気落ちする。

友達から「強い人」だと言われると、口だけだったとしても気分が良い。振りをし続けていると自らの心まで騙せる事がある。しかし私は弱い。今朝から喉が痛いが、原因は分かっている。

私は吃音と引っ込み思案な性格のせいで、学校時代は孤立した子供だった。クラスには二、三人の友達しかいなくて目立たなかったから、今までいじめられた経験がない。

「恵ちゃん、このメール書き直して提出して。子供にも分かるような簡単な言葉を使うようにと言ったでしょう。」と奈美子が指示してくる。「あと、お願いだから時間をかけて注意深く考えて。早く帰りたいからって急いで作業しないでね。」

私は時間をかけて、この言葉に取り乱したチンプをなだめる。本当に時間が必要だ。私のメールはいつも通りの定型文を切り貼りしたパッチワークなのに、彼女は最近何でもランダムに指摘し書き直しを命じてくる。

「どうしてそんなに早く書くの?この業務は急いでやるものじゃないの。」

先月、部長と各人が面談して以来これが奈美子のスローガン。最近バチェラーは部内の規則を変え、残業する必要がある場合は申請書を提出するよう皆に指示した。この新規則は私以外の事務所中の皆を動揺させているようだ。

「不満を持ったお客さんにメールを書くというのは繊細な仕事だから、特別神経を使わないといけないの、わかる?」

わかる。奈美子の言う事は100%正しい。問題は言われた事を全てして三回メールを読み返しても、まだ彼女にとって私の作業は「早い」ということだ。だから私はメールを提出する前に、もう一つの業務である国際プロジェクトの通信会社を探すのに時間を使う。しかし奈美子は最近これに気づき、時折振り返って私のパソコン画面を覗き見るようになった。

「その作業、緊急なの?社長に今すぐやるよう言われたの?」と尋ねてくる。「違うなら、私が指示した事を優先して。お客さん達が待ってるの。」

子供でも分かるような文章に書き替えてメールを再提出し、後ろで彼女が大きな溜息をつくのを聞く。否、溜息にしては大きすぎる。ジムのヨガインストラクターの大袈裟な深呼吸よりも大きい。

「しょうがないな。まだ不十分だけど、私が訂正して第二承認者に回しとくから。」

奈美子は私が完全に役立たずみたいにそう言うと、隣の席の宏美に「これだから私の業務量はちっとも減らなくて残業しなきゃいけないんだよね…」とヒソヒソ話すのだ。

上司が私のメールのどの部分を訂正するのか興味津々で、私はいつも客に送信された最終版のメールを確認していた。大抵が私には些細としか思えない変更だったが。

「かかる事情におかれましては―」というのが今回加えられた文言。

冗談だろうか?私のチンプがヒステリックに笑う。一体どんな子供が「かかる事情に」なんて言うだろう。しかも、「かかる=このような」は禁止された言葉ではないか!

認めたくないが、私はいじめを受けている。

その午後笹川が退職したと聞き、悔しくて叫びたくなった。デスク周囲の女性たちは、上司の友里に挨拶もせずに辞めたと言って笹川を批判している。皆、彼女が友里にいじめられていたのを知っているのに、それでもいじめた相手に感謝を示すべきと思っているのだろうか。

笹川がいなくなっても、女性達はまだヒソヒソ話を止めない。きっと彼女達の次のターゲットは私だ。私には海外生活や外資の前職の影響で無意識に英語でメモを取る習慣があったが、宏美が私のノートに書かれた英文を見つけ、英語の能力を「ひけらかす」日本人をどう思うかと智子に尋ねる。

「それ、すごい嫌い!」というのが智子の返答。「電車で時々、日本語の会話の合間にカッコつけて英語を使う日本人いますよね。逆に馬鹿みたいに聞こえます。大して英語上手じゃないくせにね。」

ITCMの同僚達を思い出す。国籍や見た目が日本人でも日本語が母国語ではないから、彼らは智子が言うように英語を交えて日本語を話した。

最近よく眠れない。布団の中で奈美子の敵意に満ちた顔が何度も頭に浮かぶ。宏美、康江、智子の冷笑も夢の中に侵入してくる。喉が痛くなったのも不思議ではない。

***

2019年7月9日

外気は湿って温かいのに、私の心は東京の冬のように乾いて冷たい。咳がひどいから地元の病院に行き、朝一番に診てもらおうとドアの前で他の二人の患者と共に待つ。私がこうしてドアの前で待つ事は滅多にない。最後にドアの前で並んだのは10年以上前のこと、新年のバーゲン期間中にルミネの婦人服店の福袋を買うよう姉の慶子から頼まれた時くらいだ。

病院を出た時はまだ9時半だった。今朝診察を受ける事は既にバチェラーにメールで伝えてあったが、念のため電話もした。電話に出た女性が私の部長も課長も会議中だと言うので、伝言を残す。

四ツ谷の事務所に着いたのは10時。素早く全てを済ませてこんなに早く出社できた自分を褒めたが、上司達はそう思わなかったようだ。

「就業規則にあるように、どうして9時半に電話を入れなかったんだ。」というのが朝一番の課長からの挨拶だった。これが病気の社員に対する彼の典型的な反応だと知ってはいるものの、実際こんなふうに聞かれると本当に気に障る。

「電話を入れましたが会議中と言われましたので、伝言を残しました。」と答える。

課長は私の伝言を聞いていないというので、仕方なく私用の携帯電話の発信履歴を見せて証明する羽目になった。思った通り、私のピンクのガラケーを見る課長の目に嫌悪感が表れる。社長は私のガラケーに興味津々だったが。

「あぁ、総務の番号にかけたんだな。」私のガラケー画面を探知して、課長が勝ち誇ったように言う。「我々の部署の番号にかけないとダメだ。何で番号を知らないんだ。今すぐメモして。」

私はバチェラーから教えられた番号にかけたのだが、大人しく指示に従う。

次にバチェラーが事務所に現れて、哀れな病人に尋問を始めた。

「さて、今朝は病院に行ったんだって?電話連絡はなかったけれど―」

メール連絡が既にされているのに、電話連絡はさほど致命的なのだろうか。話す気力もない。昨日から私がひどく咳をしているのを皆が知っているのに、誰も「体調はどうですか。咳は大丈夫?」とか言えないのだろうか。人を思いやる言葉は、この事務所で禁じられているのか。

「で、結局何だったわけ?医者は何て言った?」

きっとこれは私の言語では「体調はどう?」なのだと翻訳しようとしたが、バチェラーは私の嘘を暴こうと決めたプロの尋問者のような言い方だ。彼の疑わしそうな表情のせいか声のせいか分からないが、自分が信用されていない事だけは解る。

先に述べたように、私は強くない。チンプを制御するのにまだ訓練が必要だ。バチェラーの態度が私のチンプに点火し、マスクの下で顔が熱くなる。机の下から乱暴に鞄を引きずり出すと、中のビニール袋をわざとガサガサ大きな音を立ててあさった。

「医師は私の喉を診て、症状について質問してきました。」

ビニール袋から薬を全て取り出してデスクの上に並べた。見よ、これが証拠AからZだ!

「喉が腫れていると言われ、咳と鼻水もあるから、この風邪薬とこの気管支を広げるシールを処方されました。薬は5日分です。領収書をご覧になりますか。はい、こちらです。これは薬の説明書。処方箋は薬局に渡してしまいましたが―」

これを言う間、私の声はものすごく震えた。吃音のせいか怒りのせいなのか分からない。「もし必要でしたら薬局に処方箋の写しをもらいます。費用がかかるかもしれませんが、お渡ししますよ。他に何を見せしたらいいですか。」

バチェラーが意地悪い目を細めた。

「何も見る必要はないよ。ただ症状を聞いただけだ。」と、まるで私がこんな単純な問いに大袈裟に反応した狂人みたいに言う。彼はさっさと事務所から出て行ってしまったが、私の興奮はしばらく治まらなかった。

「風邪をひいて病院に行っただけでこんなふうに犯罪者みたいに尋問される会社、今まで一つも知らない!」隣席の康江に嘆いた。「この数週間、正面で咳をまき散らしている人から風邪を移されたのは明らか…。すぐに治したいから病院に行ったのに…。たった一時間遅れて出社しただけで、それで悪い社員なの?」

私がこんなにしゃべるのを初めて聞くから、康江は少し驚いた様子だ。

「あぁほら、それが仕事だから…」と口ごもる。「上司は社員たちが何処にいるか確認しないといけないんじゃない。」

「今朝病院に行く前にメールを送って、部長から返事ももらってるんだよ。私がどこにいるか分かっていたの。そんな言い訳でごまかそうとしても無駄。あの人達はただ意地悪なの。毎日課長が病欠の社員に電話で意地悪を言っているの、聞いてるんだから。あれを聞いていつもうんざりしてる。」もう私の口は止まらない。「体調が悪い時にあんな敵意に満ちた反応をされたらどう思う?風邪ひいている人を悪化させたいの?今まさに部長課長は私の風邪をひどくしてる。咳が激しくなってきた気がする。あの人達は何、私達に死んでほしいわけ?」

私の嘆きがあまりに哀れだったのか、その日は誰も話しかけてこなかった。奈美子でさえ、いつものようにメール文の「訂正」を命じてこない。一度だけ、彼女は私が鼻をかむ音が大きすぎると言ってきたけれど。

「そんなに強くかむと、鼻を痛めるんじゃない?」と親切そうな声で言ってくる。だが、「すみませんが、これが私の鼻のかみ方なので変える事はできません。」と一掃した。

ついにこの会社を去る決心が固まった。この人達から離れられると考えただけで、気分が少し良くなる。

 

2019年7月12日

朝少し早く出社し、バチェラーが社長室のデスクに一人でいるのを見つけた。この機を逃すわけにはいかない。ドアをノックすると彼が不機嫌そうに顔を上げ、まだマスクを着けている私を睨む。

「何事だ?」

この人は絶対に私の咳はどうかとか聞かない。たぶん自分はルーク・スカイウォーカーで、ロボットのうちの一つと接しているとでも思っているのだろう。

「ここでの職務について今まで考えてきて、転職を決断しました。」と、いきなり本題に入った。「RAの業務を通して多くを学ばせていただき感謝していますが、英語を学ぶという自分の目標にこだわるべきだと気づきました。」

「そう…か。」バチェラーが持っていたペンをデスクの上に置き、「座って。」と手首の黒い数珠をちらと見た後茫然と私の方に向き直る。珍しい事に、私がもっと話すのを待っているのだ。

「採用面接でお話したように、英語を学び続けたいんです。帰国した後、すぐに英語を忘れてしまう友達を大勢見てきました。英語を忘れてしまうと世界中にいる友達を失う事になります。それは嫌なんです。」

時々私は自らのアドリブ創作スピーチに感心してしまう。本当は今でも連絡を取り合っている友達はオーストラリアに数人しかいなくて、数カ月に一度お互いにメールを書くだけ。でも私の上司はそんな事知らない。

「仕事を通して英語を上達させたいんです。このモチベーションが必要です。」と加えた。

バチェラーがややじれったそうに頷く。「わかるよ。実は石川さんに別の職務を紹介しようと思っていたところなんだ。」

これは初耳だ。

「 高い英語力のある人材を探しているクライアントがいるんだ。大手の車両メーカーでね。」

「私の英語力はまだまだです。」と急いで言う。「だから学び続けたいんです。」

だがバチェラーは聞いていない。彼は英語を話さないから、たとえ私がスペイン語を話したとしても高い英語力があると思うのだろう。

「まだ公表前だけど、もし興味があれば―」とバチェラーが机の上のファイルの山から一枚紙を取り出して、渡してきた。

その求人票には、会社の所在地が品川とあった。勤務時間は9時から18時で、月に10時間程度の残業。ダメだ。バレエのクラスには間に合わない。3秒で決断したが、こんな理由は言えない。ただの趣味のためにこの申し出を断ったら、部長は非国民として私を正当に処罰するだろう。だから業務内容を真剣に読んでいるふりをした。

「ありがとうございます。私のキャリアの事を考えて下さっていて、本当に感謝します。」と心から礼を言った。彼が本当に私のためにこの職務を考えていてくれたなら、感激してしまう。「でも、自分で次の仕事を探すつもりです。できれば無期雇用社員を希望しているので。」

また大嘘。「無期」という言葉は私が最も嫌いな言葉のトップ5に入っているから、自分の嘘に嫌気がさしてくる。

「なるほど。」とバチェラーは私から用紙を受け取る。「石川さんは、一年後にはこの会社で無期雇用になるんだけどね…」

私は何も答えなかった。ここで無期限に働くとしたら、脳手術を受けてロボットのようにならないといけない。

少しの沈黙の後「それで、いつ退職したいですか。」と彼が聞いてきた。

話がスムーズに進んでいる。

「いつでも会社のご都合の良い時に。指示に従います。」と答えた。

「ふむ、次の職場を探すのに30日は必要だろうしね?」と、バチェラーが卓上カレンダーをめくる。その声が急に、次の仕事を探さなければならない哀れな浮浪者に対して高慢に聞こえるのは、私の被害妄想に違いない。既に他の会社から採用内定をもらっていると嘘をつきたい衝動にかられた。「だから次の仕事を探す時間は要りません。」と言いたかった。だが、残念ながら私はそういう人間ではない。私が給与や地位の高い次の就職先を見つけてから退職願いを出すタイプではないと、恐らく皆が知っている。

バチェラーは私の退職日を8月12日に決め、退職前にいくつか書類を渡すと言った。礼を言って部屋から出ると、智子と目が合う。彼女の大きな目は好奇心で一杯だったが、何も聞いてこなかった。 何かされたら怖いから、当分の間は彼女らに退職の事は言うまい。本当に被害妄想に憑りつかれている。

***

2019年7月19日

妹の梨花はほぼ毎日のようにジョギングをする。真夏の焼け付くような太陽の下でも走りに出かけるから、まるで馬のよう。余暇に何をしているか聞かれると、私はいつも違う答えを返す。一つの決まった趣味を持てるという事は、日々の生活が安定している証拠。私の生活はまた変化の時を迎えている。たぶん私は一生特定の趣味を長く続ける事ができないのだろう。

まだ誰も、私が順調に走る車を降りて裸足で茨の道を歩く方を選んだと知らない。わずか4ヶ月前に歩いていた、長く暗く息が詰まりそうな「無職」という名の道。血を流した足の痛みをまだ覚えていたけれど、後悔はない。

「恵ちゃん、どうして昨日お客さんへの返信文にこの通知を加えたの?通知は金曜にだけ送ると言わなかった?」

上司が朝から何か騒いでいる。週末のサービス窓口時間の知らせについてだ。

「このお客さん達も週末の窓口時間を知りたいかと思ったので。」と説明する。「木曜に私達のメールを受け取っても、すぐに返信する時間がなくて週末に問い合わせたいかもしれません。」

全ての客に窓口時間を案内するのが、なぜ誤りなのか分からない。

「この通知文は金曜に送るメールにだけ入れるよう言ったでしょう。決まりなの、わかった?」

「分かりました。すみませんでした。」と、もはや愉快になりながら謝る。「次から気をつけます。」

世の中には、こういう滑稽な職場にいる人達が他にも大勢いるのだろう。だが毎日が無意味な「決まり」で埋め尽くされ何も価値ある物を学べないのなら、そんな人生は悲しすぎないか。

奈美子はまだ私が退職する事を知らなかった。彼女の態度で分かるが、知ったら不機嫌になるだろうか。私のタイムトラベルする脳は、既にこの答えを見に行っていた。奈美子は私に悶着無しに去ってほしいから、私に対して穏やかな態度になるだろう。むしろ弱い者をいじめて追い出したと見られるのを恐れ、優しくなるかもしれない。

しかし、今はまだ私はここにいる。今日は金曜で計画通りに18時までに全ての業務を終わらせた。パソコンをまさに閉じようとした時、奈美子の頭がこちらを向く。

「恵ちゃん、このお客さん達にあと二通メール文を作ってほしいんだけど。」逃げようとしていた魚を捕まえたかのように得意げな顔だ。「悪いけど、金曜だから今日中に返信したいの。来週の返信になると遅すぎるからね。」

「わかりました。」と私は時計を見やる。何故もっと早く言ってくれなかったのだろう。

ITCMリクルーターたちの苦情が思い出された。彼らの仕事後の予定は全てカレンの機嫌一つで台無しになるから、自分達はまるで召使のようだと嘆いていた。その時はそれが雇われた者の悲しい運命なのだと思って聞いていたが、今は本当に「殺人的な」気分にさせられる事が分かる。

メールを二通書く間、5秒ごとに時計を見た。4月以来、金曜のバレエのクラスを休むのはこれが最初になるだろう。そう考えると、過去4か月間で一度もクラスを休まなかったのは奇跡のよう。きっと神様が私を生かすために、せめて週に一度はクラスに行けるようにしてくれたのだ。だが今日はたとえ神様でも私を助けられそうにない。

事務所を出たのは18時40分だった。19時からのクラスに間に合うわけがないと分かっているのに、四ツ谷駅まで狂ったように走った。「すみません!」と道行く人々に叫び、「ごめんなさい!」と駅の改札前の列に滑り込む。四ツ谷から荻窪までの乗車は20分。その間、車内のテレビ画面に映る時計を睨み続けた。それで電車が速く走るはずはないのだが、車掌が隠しカメラから私の緊迫した顔を見てスピードを上げてくれるところを横柄に想像してみた。

電車が新宿を過ぎる頃、ようやく窓の外へ視線を移す。大きな銀色の雲が密集したビルの上をゆったりと動いていた。雲を見るといつも心が鎮まる。もう今日は諦めよう。

19時7分過ぎに大波スポーツクラブに着き、階下の更衣室で着替えた。とにかく20時からのヨガのクラスには参加できるから。階段を上ってスタジオに行き、ガラス戸が既に閉まっているのを悲しげに認める。ガラス越しにバレリーナ達が踊る姿が見える。腕に巻いたロッカーの鍵に視線を落とした時、ガラス戸が開く音がした。

「入って。」

いつもドアの近くで踊っている女性が私に気づいたようだった。「どうしてそんな所に立っているの。ほら、大丈夫だから入って。」と私を促す。

「いいんですか…」彼女と、こちらへ歩いてきた河合先生を見た。

「どうぞ、お入りください。」

先生がドアを押さえていてくれている間に、私は雀のようにスタジオに入り込む。

後になって久美子が、この瞬間は「驚愕」だったと教えてくれた。19時を過ぎたら誰も立ち入る事は出来ないはずだったから、スタジオ中が凍り付いたという。バレエのクラスは一度始まるとその華麗な雰囲気は一人の侵入者もなく保たれるべきなのだ、と彼女は説明した。

「マダム達のショックを受けた顔を見なかったの?」と一月後に久美子は聞いてきたが、正直私は興奮しすぎていて周囲の様子には何も気づかなかった。麗子が微笑んで、「間に合って良かったね。今日は来られないのかと思ったわよ。」と言ったのだけ覚えている。麗子はクラスで一番上手なバレリーナ。いつも私の前で踊ってくれるから、私は彼女の美しい動きを真似している。

とにかく私が「侵入」した時、皆はロンデ・ジャンプを練習していた。その時かかっていた音楽が好きだったから覚えている。練習の合間に河合先生が、自分が10代の頃に通っていたバレエ教室の話をした。スタジオにいる私以外の皆が知っているような有名なバレエダンサーの名前を挙げ、彼のバレエの先生はこの有名人の友達だったと言う。そして彼の先生はすごく怖かったようだ。バレリーナ達が先生の話を聞いて微笑む。河合先生は普段は練習の間にあまり話さないのだが、その夜はおしゃべりだった。

クラスが終わった後、スタジオに入れてもらったお礼を言いに先生の所へ行った。

「何分くらいなら遅れても大丈夫なのでしょうか。」と申し訳なさそうに聞いてみた。

「うーん…」

河合先生が考えているふうなので、「5分くらいでしょうか。」と聞いた。

「そうですね、5分くらいなら…」という答え。

後で久美子からバレエの世界では1秒の遅刻さえ許されないのだと教えられるまで、自分がいかに愚かな質問をしたか気づかなかった。その夜について久美子と話すうち、この脳が過去にタイムトラベルして違う方向から物事を見てみた。

何故その夜先生がおしゃべりだったかというと、彼は私(侵入者)のせいで何人かの生徒たちが取り乱した様子なのに気づいたからだ。それで皆を笑わせて雰囲気を軽くしようとした。河合先生自身は幼少の頃より厳しいバレエの世界で鍛えられたであろう一方、彼は私のような気軽な参加者たちにもクラスを楽しんでもらいたかった。だから私に一秒でも遅刻してはいけないと言うのを躊躇ったのだ。

急に泣きたい気持ちになった。

 

2019年7月24日

私のRAでの最終勤務日は8月9日になると内田に話した。

「そしたら、本当に退職しちゃうんだね。」と私が決断を早まったかのように言われた。

この職場で唯一の友人である彼女も、私がこれほどすぐに退職するとは思わなかったようだ。「契約が終わったら」とか「今のプロジェクトが完了したら」というのがふさわしい時期なのは十分承知している。だが同時に、この「ふさわしさ」が日本で多くの人を毒しているような気がする。この見えないスピーカーが個人の耳に秘かに植え付けられていて、「業務の途中で投げ出して会社に迷惑をかけてはならない。」「逃げ出して負け犬になるな。」と絶えず囁き続けているのだ。

私はITCMにいた頃のように「ふさわしさ」の奴隷になるなら、負け犬になる方を選びたい。

康江とマネージャー達の会話から、昼休みにいつもユーチューブビデオを見ている髪の長い細身の女性が和美という名だと知った。時々話した感じでは真面目な印象だったから、どうしていつもマネージャー達が彼女を批判するのか分からなかった。

「また和美さん?何度同じミスを繰り返すのか。」その午後、課長がまた彼女について毒づいている。私はなぜか居心地が悪い。

間もなく和美が呼び出され、その弱弱しい姿が課長の前の私のデスク横に立つ。話すにつれ、実は今回ミスをしたのは彼女ではなく彼女の上司だと判明したようだ。

「あぁ、彼女か…」課長の口の両端がわずかに歪む。彼の咳は私より先に収まっていて、もうマスクはしていなかった。

和美の上司、ぽっちゃり体型でよく冗談を言う明るい中年女性が呼ばれる。内田も彼女の下で働いていた。

「あらやだ、私のミスだわ。ごめんなさい!」と彼女は気軽に課長と笑う。「ほら、だってここが分かり難いから―」という言い訳を課長が真剣に聞いている。この納豆男は、人を選んで話を聞くのだ。

話の間、和美は静かに微笑みながら私のデスク横に立っている。自分がしていない誤りで呼び出され誰も謝らないのに、少しも不機嫌な様子は見せない。

それでもマネージャー達は和美の批難を止めなかった。彼女が去った後、康江が悪口を再開する。

「和美さんの派遣会社から担当者が面談に来た時、彼女なんて言ったか分かります?」康江がバチェラーに聞く。「え、派遣会社から誰かが来るんですか?すみません、知りませんでした、っていつものオロオロした感じで言ってましたよ。」

「そうなのか。」とバチェラーはお決まりの悪魔の笑顔を形成し、そのコメントをホワイトボードに書き始める。「知りませんでした。」

「知りませんでした、というのは悪い表現だ。否定形は使うべきじゃないね。」と宣言する。

何?私は訳が分からず、ついホワイトボードを見つめてしまう。知らなかったのだから、「知りませんでした」と言うだろう。一体この一文の何か悪いのか。

「そうですよね、否定形は良くありません。」康江がマネージャーに同感する。彼女は上司の邪悪な精神を高揚させる方法を知っていた。「いつも肯定形を使うのが個人の行動を向上させるんですよね。」

あぁ、二人はプラス思考の本でも読んだのか。

「そう。プラス思考の社員はいつも肯定的な事を言うという調査結果があるんだ。」とバチェラーが頷く。

彼らの話はつまらない。私は正直、肯定的な事ばかり言う人は信用できないから。ITCMのカレンは顧客に全てが順調だと嘘をつき続けていた。彼女の下で働く従業員達は自分たちの警告や懸念が全て彼女の「プラス思考」というハイヒールに踏みつけられると分かると、次々と退職していった。

私にとっては、私のチンプが教えてくれる有用なマイナス思考を否定する「プラス思考」こそ、「マイナス思考」の源なのだ。でも、誰も私の意見などに興味は無い。

***

2019年7月27日

友人の早紀が沖縄のエイサー祭りに誘ってくれた時、正直躊躇した。彼女に話せるような良い事は最近何も無いし、笑い方を忘れてしまったのではと心配さえした。早紀は私がITCMを雇止めされた事を知っている。悪い事の後には必ず良い事があると一途に信じて、新しい職場はどうかと聞いてくるだろう。気が沈む。だが、ノルウェーには一人で旅行できるのに新宿に一人で来るのを恐れる彼女に、久しぶりに会いたかった。

17時にJR新宿駅の西口で待ち合わせた。混雑で知られる場所だが、何とかお互いを見つけて夕方の街へ繰り出す。

「しばらくぶりだね。2月以来?元気にしてた?」吃音を意識しながら、尋ねた。

幸い早紀は話したい事を溜め込んでいたから、私はすぐに自分の声がどうやって出てくるかよりも彼女の話を聞く事に集中する。早紀はちょうど精神科の社会復帰コースに通い始めたという。そして既にコースを修了した後の事を心配していた。

「たとえ2年以内にコースを終えられたとしても、その後スムーズに仕事を見つけて普通の生活ができるようになるか分からないし―」とため息をつく。

ふと、彼女に「普通の生活」の定義を与えた誰かを批難したくなった。

日が沈むにつれ、少し涼しい風が私達の前を行く若い女性の薄いスカートを揺らし始める。それでも彼女の彼氏はお姫様を扇子で仰ぎ続けている。早紀が速足になり、私も彼女に続いて若いカップルを追い抜いた。

パフォーマンス会場の大通りに少し早く到着して良い見物場所を取ると、ほどなくしてエイサーのダンサーらが現れた。道行く人々が、黄色い浴衣姿の女性たちと太鼓を持った半被男たちの姿に足を止める。パフォーマンスは私の伝統的な太鼓踊りのイメージを一瞬にして翻した。すごい迫力。威勢の良い太鼓の音と30人の「エイサー」という叫び。素早い動きと整ったフォーメーション。早紀も私も「すごい、カッコイイ!」を繰り返す。ふと早紀が会場の真ん中で巨大な旗を抱えている男性を認め、「実はあの人の役割はすごく重要だよね。」と呟いた。

とたんに、リズムに合わせて栄光の旗を単純に上下に動かす旗持ち男を観察し始める。大きく腕を振りながらステップを踏み、跳んだり回ったりする他のダンサーたちと比べ、両手を重い旗で塞がれた彼は確かに地味に見える。

「そうだね、実は一番大変な役かも。旗の大きさを見て。」と頷いた。

「長さ約8メートルで重さ60キロだって!」祭りのパンフレットを見て、早紀が息を呑む。「わぉ、あの人マッチョに違いないね。」

旗持ち男の顔から汗が噴き出している。18時だが夏の空気はまだ暑かった。動いているダンサーたちはもっと暑く感じているだろう。何故か分からないが、急におかしくなった。

「彼、踊りの練習はしなくていいだろうけど、筋トレはたくさんしたんだろうね。」

私は噴き出してしまい、早紀が怪訝そうに見てくる。「私、何かそんな面白い事言った?」

「ううん、気にしないで。」と笑いに詰まりながら言う。「時々こうなるの。一度おかしいと思うと笑いが止まらないんだ。」

実際、これは厄介な問題だった。私の笑い。おかしい事を考え続けてしまい、何時間も頭から離れない。何で笑っているのか分からないまま、早紀も一緒に笑い出す。つられるのだ。私達を見て他の観客たちも次第に顔を歪めていく。パフォーマンスの何がそんなに面白いのかと、もっと多くの人達が集まりに加わる。あーあ…

私が旗持ち男を見て笑ったのだと誤解して、早紀は彼の次のパフォーマンスを見ようとタイムテーブルを調べる。

「違うよ。次は笑わないと思う。」と、まだ笑いながら説明した。「あの男性がおかしかったわけじゃないの。」でも何がおかしかったのかは分からない。吃音と似ていて、いつどうして起こるのかいつも分かるわけではないのだ。私は少し頭が変なのかも。母によると、2歳の時に高い滑り台から落ちて頭を打ったらしいから。

たくさん笑った後、夕食にタイレストランへ行った。まだ愉快な気持ちだったから、新しい職場の話をしても自分を哀れに思わなかった。

「恵の職場の女性達って、頭の悪い女子高生みたいだね。それに部長と課長!」早紀は私の話を聞いて怒っている。彼女特有の強い同情心は梨花のものと似ている。恐らく二人は私よりもフレッドを憎んでいるだろう。

早紀は漫画オタクでもあるから、時々世の中を漫画の話のように見るようだ。私の冷蔵庫無しの生活を聞いて、夢見るようにこう言った。「確かに恵は本当の変人だけど、漫画の世界では一番人気がある紳士が一番変な女の子に興味を持つんだよね。それで最後に彼が他の綺麗でお金持ちのお嬢様たちを差し置いて、その変わり者の女性を選ぶから、皆が驚くの。」

「いかにもお話だね。」と私はケラケラ笑う。

でも一瞬、バレエの先生が他の綺麗でお金持ちのお嬢様たちを差し置いて私を選ぶ場面を想像した事を認めよう。すぐに自らの馬鹿げた考えを笑い飛ばした。何て人だ、この友人は。早紀だけが私にこんなメロドラマ風の場面を見せてくる。

タイレストランが閉まる22時まで話し込んだから、旗持ち男の次のパフォーマンスは見逃した。大通りは静かで、空気はようやく冷えてきていた。次に同じ旗持ちの男性を見てもおかしく感じないかもしれないが、まだ笑い方を忘れていない事に安心した。

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