第二章 2019年8月

2019年7月 < > III

2019年8月1日

奈美子が休暇中だからか、RA事務所での私の日々は平穏だ。宏美も定型文に固執するものの、私のメールパッチワークをチェックする時に粗探しをしたりしない。デスク周囲の女性たちが既に私が退職すると知っているのは、聞かなくても分かる。奈美子も休暇前に課長から知らされたに違いない。二人が煙草を吸いに事務所の外へ出て行くのを見た時、何が話されるのか分かった。

「チームの同僚達にお菓子を買ったりする?」帰りの電車が同じになった時、内田が尋ねてきた。

「うーん…」

二年間勤めたメキシコレストランを退職する時は、同僚達にシャトレーゼのマドレーヌを買った。その後のソフトウェア会社の退職時は、コージーコーナーのフルーツケーキを選んだ。ITCMからはゼロ日前通知で追い出されたから、同僚らに何かを用意する時間はなかった。

「たぶん買わない。」と答える。職場で良い扱いを受けなかった人は、良い事を考えないようになるのだ。

「うん、ただお礼を言うだけでいいかもね。」内田が頷く。

正直私にとっては、奈美子にただ礼を言うだけでも大儀に思える。だが、「うん、奈美子さんは私の退職日の前日に休暇から戻るんだ。」と言った。何という幸運!

RA退職の話は、まだ亜実にもサイモンにもしていない。今回は自分で決めた事だから、また無職になっても大丈夫なのだと思われるだろう。実際は全く大丈夫ではなく、不安で一か月前からランダムに仕事を探していて、既に何社かと面談していた。

ある面談は事務所でバチェラーのヤクザ罵声を聞いた日に行われたから、仕事の後も私の喉はまだコチコチに固まっていた。

「 石川さんのご経験や資格を考えると、この職種は向かないようですね。」面接官はすまなそうにそう言ったが、私は自分がどもったせいに違いないと思った。仕事の後に面接に行くべきではなかったのだ。バチェラーや課長がいつ事務所で津波を巻き起こし、私がストレスの下で吃音ムードになるか分からないのだから。

別の面接は、珍しい事に先週の日曜に行われた。丸の内にある豪華な内装のビルを訪ねてすぐ、時間調整が柔軟な理由がわかった。

「立ち上げの会社なんですよ。」アメリカ人の面接官が意気揚々と言う。「東京オフィスは、全てあなたの好きなやり方でアレンジしていただけます。」

ゴールデンボックス社のホンを思い出さずにはいられず、アメリカ本社との時差のために夜中に働くのは理想的ではないと、即答した。

三社の派遣会社とも連絡を取り合っている。

「金曜の19時からバレエのクラスに出ているんです。」と馬鹿な要望を伝えた。「できればクラスに参加し続けたいです。」

派遣会社の担当者達にいかにもバレエを踊るように見えると言われ、詐欺師のような気分になった。実際は私の細身は遺伝的なもので、5番ポジションで真っ直ぐ立つ事すらできないのに。だがそんな事を言ったら、要望を真剣に受け取ってもらえないだろう。派遣会社の誰かが、大波スポーツクラブのバレエ友達の知り合いではない事を祈る。

とにかく最近就職活動に励んでいて、毎晩インディードの求人広告をチェックしている。一体私は人生の何時間を仕事探しに費やすのかしら。

***

2019年8月2日

丼丸に行って、店長にこれが最後の持ち帰り弁当になると告げた。私は5カ月前にもらった丼丸のビニール袋を毎回持参していて、割り箸は要らないと伝えていたから店長に覚えられていた。

「そしたら、どこかよそへ行ってしまうんだね。」と店長は言ったが、幸いそれ以上は聞いてこなかった。

結局、五十種類の海鮮トッピングを全部試す事はできなかった。気落ちして休憩室で最後の丼丸弁当を食べていると、社長が私を見つけて声をかけてきた。「あ、ここにいましたか、石川さん!探していたんですよ。」

休憩室にいる皆が、社長がこの影の薄い新人に何の用があるのか解せないというように私の方を見る。

「返事がきましたか?」と、アフリカ地域の通信ラインの事を話したいのだろうと察して聞いた。

「きましたよ。」と鼠が嬉しそうに答える。「ゆっくりお昼を食べて、休憩が終わったら社長室に来て下さい。」

小さな体が瞬く間にドアの後ろに消えて行った。彼は既に私が退職する事を知っているのだろうが、その顔は何の感情も表さない。

昼食の後社長室に行った。

「年末に回線を閉じるのに同意してくれましたよ。」と鼠が報告してくる。

最近、アフリカのある国で通信回線が重複している問題を抱えていた。私の前任が2020年3月満期のイギリスのプロバイダーとの契約を2019年3月までと勘違いして、香港のプロバイダーと新たな契約を結んでしまったのだ。一国に一回線しか必要ないため社長は初め私に香港プロバイダーとの契約を解約するよう指示したが、私はプロバイダーと話した後、解約料金と回線開設にかかる期間を考え契約を保留するよう提案してみた。すると社長は私に同意し、新しい契約を保留して古い回線を12月に閉鎖できるかどうかイギリスプロバイダーに頼む事になったのだ。

「石川さん、ありがとう。」と鼠が言う。「新しい契約を解約していたら重大な問題を抱える所でした。国によっては回線を取るのに何ヶ月もかかる事があるから、今解約したら全く通信できない期間ができてしまったかもしれない。」

そして、社長は初めて私の退職について触れた。「石川さんがいなくなった後は、誰を頼ればいいものか。」

不思議な気持ちになった。本当はもう「自分は外れている」事なのに、今この時までは二人で「私達」はこのプロジェクトについてどうするかを話してきたから。

「退職した後でもご連絡下さい。」と軽く伝えた。「ボランティアでお手伝いしますので。」

RAを去るにあたり唯一名残惜しいものは、この小さな鼠だ。彼は会社の社長達に私が偏見を持っていた事を教えてくれた。

2019年8月9日

RAでの最終勤務日は後任への引継ぎ業務に追われた。派遣社員の女性だ。

「聞いた?彼女、午後2時までしか働かないんだって―」奈美子と宏美がその派遣社員の事をヒソヒソ話すのが聞こえる。「誰がそんな人雇ったの?パートタイムがどうやって私達の助けになるって言うの?」

私は国際プロジェクトの説明をしながら後任の彼女と少し世間話もしたが、家に小さな子供が二人いるからパートタイム勤務が理想だと言っていた。

「何だかすごく心配。」と彼女が繰り返す。「明日からちゃんとこの業務ができるかどうか…」

「大丈夫ですよ。いつでも部長に聞いたらいいです。」と私は安心させようとしたが、彼女は私の個人メールアドレスを受け取るまで満足しなかった。きっと怖い顔のバチェラーではなく私に聞きたいのだろう。

彼女が14時に退社すると、私は自分のデスクを片付けて周囲を掃除した。皆にお礼の挨拶メールを送り、最後に奈美子の方を向く。

「今日が最終日です。今まで本当にお世話になりました。」と笑顔で言った。

よくやった、恵!

「こちらこそ今までありがとう。」奈美子も微笑み返してくる。

長い休暇の後だからか、私が去るからか、彼女はリフレッシュして見えた。宏美、康江、智子もこの平穏な場面をニコニコして見ている。私がこの部屋から一歩出たとたんに彼女らはゴシップを始めるのだろう。

対照的に、私の別れの挨拶を受けた社長の元々無表情な顔はさらに解読不能だった。

「本当に連絡するよ、いいですね、石川さん。」と鼠が尋ねる。

「もちろんですよ」と答えた。

最後にバチェラーのデスクに行った。彼は自分のタイピングの音以外は何も聞こえないかのように、黙々とパソコンキーを打ち続けている。顔を上げた時、その目がかすかに光っていた。私がお決まりの礼を言うと、「うん、特に今日は新人を教えてくれてありがとう。」と彼が答える。

濡れた目を私の目から逸らさずに。むしろ果敢に私を直視していたが、その奥に震える感情が見えた。だから急いで挨拶を終え、その目をパソコン画面に向き直らせた。前のソフトウェア会社の社長を思い出す。彼の目も私の退職日に異様に光っていたから。美代の目も。きっと皆アレルギー持ちなのだろう。

帰りは丸の内線に乗った。仕事の後JR四ツ谷駅に向かって走る日々が何だか懐かしい。既に古い思い出のような気がした。車内でぼんやりと窓の外の暗闇を眺めていると、ガラケーが鳴り鼠からのメールを受信した。

「お礼としてランチにどこか良いお店に連れて行きますよ。今まで随分助けてもらったので。」とメッセージにある。「何日のお昼が空いていますか?」

以前、私のデスク周囲の女性たちが夕食会について話していたのを思い出す。

「社長が皆におごってくれるんだって!」康江がはしゃいで言っていた。

「高級蕎麦と日本酒のお店だって。」と宏美の声。

私の第三の目が、私が会話に加わるのを待っているかのようにこちらを代わるがわるに見る彼女達を捕らえる。でも私は彼女らと出かけたくないから聞こえないふりをした。しかも私は蕎麦も日本酒も嫌いなのだが、社長にそれを知られたくなかった。

恐らく鼠はその夜私が夕食会にいないのに気づいていて、今誘ってくれているのだろう。その優しさに感激しながらも、こう返信した。「ありがとうございます。でも職業安定所に通うためお昼の時間は空きが無いので。それにお礼をしないといけないのは私の方です。」

***

2019年8月10日

今日は杉並区のサマーフェスティバルで、私達の合唱団は地元の公会堂の舞台に立つ。今年のフェスティバルのテーマは「始まり」。

梨花が私達の歌を聞きに来てくれた。舞台から観客席の一番後ろに座る妹を即座に見つける。白い半袖に黒いズボン、私と同じような服装だ。黒髪は私と同様に一つに束ねられている。演奏の後、合唱団の仲間達が「妹さん、見たわよ!すごく似ているのね。」と私の肩をつつくのも不思議ではない。

私と梨花は一卵性の双子だから、もちろん似ている。でもどういう訳か私は人に双子の妹がいるとなるべく言いたくない。見た目はそっくりでも私達は火と水のように違うから。少なくとも私は幼少の頃からそう感じていた。例えば梨花は「不眠」を経験した事がないから、私が眠れない時それは私が疲れていないからだと言う。

「本当に疲れていたら眠れるはずだよ。」と梨花。「眠りを妨げる拷問知ってるでしょう。あんなふうに邪魔されても、本当に疲れていたら私達の脳は眠ろうとするんだよ。」

でも脳が通常に働かず私達の健康を害する事もある。それが「精神疾患」ではないのだろうか。

合唱団の他の皆が近くのレストランに行く中、私と梨花は挨拶をして私のアパートに向かった。

「私達の合唱どうだった?」と強い日差しの下を歩きながら妹に尋ねる。

自然な声でとても良かった、という答え。

「ところで、合唱の先生はピアノを演奏していた人?」しばらくして梨花が尋ねる。

「そうだよ。」

「女性のメンバーが大勢いる中で、すごく目立ってた。何だか皆、若くてハンサムな先生に惹かれて合唱団に入ってるみたいに見える。」

何が言いたいか分かる。「確かに、先生はとても紳士だよ。」

梨花に先生は既婚なのかと聞かれ、愉快な気持ちになった。双子の妹は私をすぐに誤解する。

「さぁ、多分ね。」彼が既婚かどうかなんて、正直気にした事もない。

「そしたら、先生は一度も奥さんとか子供の話をした事がないんだね?」と妹。

やれやれ。私は結婚するまでは、若くてハンサムな男性が教えるグループには入れないのだろうか。

「まだバレエ頑張ってるの?」梨花が話題を変えた。

「うん。毎週金曜に行ってる。」と私は陽気に答える。「皆すごく綺麗で優しいんだよ。友達も増えてるの。」

「あぁ、分かるけど…」私がバレエに熱心なのを、梨花はあまり賛同しないよう。「ジャズダンスとか、ジムの他のクラスにも出てみたら?ほら、もっといろんな人との出会いがあると思うから。若い男性とか。」

言いたい事は分かる。妹はバレエを習うのは女性だけだと思っているのだ。

「うん、そうしようと考えてるところ。」と嘘をついた。彼女には私のバレエの先生は女性だと信じていてもらおう。

暑い日だったが、私のアパートの水道水で入れた麦茶を梨花は不満も言わずに飲んだ。私が冷蔵庫を持っていないのを知っているし、体を冷やす氷水はどうせ飲まないから。姉の慶子と違い、私の双子の妹は私の気が狂ったとは思っていない。たとえ他の人と「少しだけ」違っていても、私がやる事には私なりの理由があるのだと妹はいつも解ってくれる。

***

2019年8月13日

今回の求職期間に、「3月を繰り返すな」と名前を付けた。心配と焦りに日々を蝕まれた今年3月の二の舞は踏みたくないから、空いた時間は有用なプロジェクトで埋め尽くすのだ。

第一に、仕事の検索は毎日お昼までの間に行うことにする。第二に、この3ケ月間後回しにしてきたブログの執筆を再開する。第三、ジムに毎日通い、バレエや合唱を引き続き楽しむこと。第四、寝る前に毎晩本を読むこと。

今朝は三社に履歴書を送り、健康保険証を国民年金保険に切り替えに荻窪区役所に出かけた。毎日忙しくなるだろうから、将来を心配する暇など無いはず!

***

2019年8月20日

大手人材派遣会社のレオナルド・カーターが今日の面接の事で電話してきたのは、3日前の事だった。

「石川さんの前職のITCMは私達と同じ人材紹介事業をしていたようですね。」とリクルーターが電話越しに言った。「だから私達の会社に興味を持っていただけるかと思いました。私達の部長はイギリス出身なのですが。ITCMのディレクターはどちらの方でしたか。」

「か、彼もイギリス出身でした。」と弱弱しい声で答えた。

「それなら完璧です。」リクルーターは満足そうに言い、私をレオナルド・カーターのオフィスアシスタント職の応募者として面接に招待した。

人種差別をするな、恵。イギリス出身のディレクターが皆フレッドのようだとは限らないのだから。レオナルド・カーターの真新しい会議室で待つ間、自分に言い聞かせる。

「こんにちは、メグさん。レオナルド・カーターによくお越し下さいました!」電話で話したチョウが部屋に入って来た。プロ級の笑顔の作り方を知っている中年女性だ。私にオフィスアシスタントの職務を説明した後、この後控えている面接についてアドバイスをし始める。

「今日は二名と面談していただきます。一人はメグさんがこちらで働く事になったらアシストしていただくオフィスマネジャーです。この人は優しい日本人女性ですから、何も心配する事はありません。難しい方は私達の部長です。」

難しい方?

「電話でお伝えしたように、部長はイギリス出身でいかにもイギリス人なんです。分かりますか。」

いかにもイギリス人?正直、私はそんなに多くのイギリス人を知らない。

「ほら、分かるでしょう。すごく愉快な人なんです。きっとこんな風にこの部屋に入って来ますよ。ハーイ、メグさぁぁん、元気ぃ?」チョウが甲高い声で上司の真似をする。

「あぁ、そういう事ですか。」

「だから、自然と彼も同じように元気な人が好きなんです。ちょっと、いいですか…」彼女が突然席を立ち私の方へ来た。「ちょっと口紅を塗ってみたらどうでしょう。顔色が青白いので。」

心の中で驚愕の声を上げたが、礼儀正しく微笑んだ。「ええ、でも私、実は口紅は持っていないんです。」口紅など今まで一度もつけた事がない。

「そうなんですか?」とチョウが驚く。「今日はお化粧ポーチを忘れたの?」

私が鞄の中に手鏡を持ち歩いていないと知った時の慶子と同じ、驚き呆れた目で見つめてくる。

「えぇ…」

「大丈夫ですよ。ちょっと待ってて。」熱心なリクルーターは一度部屋から出ると、自らの化粧ポーチを持って戻ってきた。もう逃げられない。大人しく、薄い唇に口紅を塗ってもらう。口紅の後は、ピンク色の粉まで頬につけられた。

「ご覧なさい!」チョウが満足気に叫ぶ。「ほら、元々綺麗なお顔立ちだから、少しのお化粧が映えるんですよ。」

「わぁ、ありがとうございます。」と私はチョウが差し出す手鏡を覗き込む。ゲッ。酔っぱらったピエロみたいな顔…

「部長が部屋に入ってきた時、今みたいに笑って下さいね。きっと好かれますよ。」と彼女がウインクして部屋を出て行く。

恥ずかしくて今すぐにでも家に帰りたい気分だ。

部長はチョウが言ったようには現れなかった。

「はじめまして。どうぞ、お座り下さい。」

真面目な顔で、態度はいたってビジネス風だ。私のリクルーターは別人の話をしていたのだろうか。それとも彼は、一目で私は自分のタイプではないと見抜いたのだろうか。

すごく緊張して話の間声が震えてしまった。一度喉が詰まった時、部長の冷たい目の奥で早々と決断が下されたのが見えた。

「では、他に質問が無ければ…」とわずか5分の面談を終えようと、彼が尋ねる。こんなに機械的で短い面談は想像していなかった。

「あの…この職業紹介のビジネスをする中で、何を重要視していますか。」

「どういう意味ですか?」

ウー、私の英語が悪くて伝わらない。

「ウェブサイトに、御社は求職者達がそれぞれの天職を見つけるまで何年間も連絡を取り合うと書いてあったのが、とても印象的でした。」

私はもちろん求職者の立場からそう言った。誰も職業紹介業者の都合の良い商売道具として扱われたくはないのだから。たとえ実際はそうだとしても。

「ええ、我々は顧客のニーズに応えるべく、常に連絡を取り合っています。」しかし部長は明らかに職業紹介会社側の立場で話している。私はITCMで働いていたから、人材を欲している顧客企業が職業紹介業者にとってセレブのように重要なのをよく知っていた。以前カレンが私にタコランチを食べに行こうと誘ってきて、驚いた事がある。その時彼女は他の同僚達にも妙に優しくて、皆で気味悪がっていたら、フレッドの部屋に重要な顧客が訪ねてきているのが判明した。

部長の後はオフィスマネジャーと面談した。オフィスマネジャーの後は別のリクルーターがいくつか仕事を紹介したいと入室してきた。

「無期雇用の仕事が見つかるまでの間もし短期の仕事に興味があれば、短期雇用を専門に扱う同僚を紹介しますよ。」とそのリクルーターが言って立ち去る。後から後から各々が扱う求人情報を紹介しにリクルーター達がやって来て、昼過ぎにようやく解放されるまでには、レオナルド・カーターのロゴがついた名刺が十枚も集まった。

帰宅するなり化粧を落とす。猛暑日だったが、ラーメンを冷まさずに貪った。就職活動は本当に疲れる。

「今日は明るい女子コンテストで落とされたよ。」とスカイプでキムに報告した時、今朝の出来事が急に面白おかしくなった。「残念ながら、部長は私の笑顔が好きじゃなかったみたい。爆笑」

リクルーターに化粧をされた話を聞いて、キムも笑い出す。「これもまた、今まで一度も聞いた事がない面接話!」

化粧を落とす前に、ピエロの顔の写真を撮ってキムに見せればよかったと後悔した。

2019年8月21日

レオナルド・カーターのミックが、早くも永田町にある国際船舶管理会社との今朝の面談を手配してくれた。ちょうど午後に近くで別の派遣会社が設けた採用面接の予定があったから、両方受ける事にする。

面談室から他の応募者が楽しそうに笑う声が聞こえ、私は船舶会社の待合室ですっかりリラックスしていた。

「会っていただくのはこの会社の60代の社長で、とても視野の広い良い人ですよ。」というミックの言葉も私が今落ち着いている理由の一つだ。きっとRAの小さな鼠社長のような人だろう。

前の応募者の面談が予定時間を30分近く過ぎて終わったが、ようやく呼ばれて入室した私に面接官である社長からは一言の謝罪もなかった。

「はい、座って。」と、痩せて日に焼けた日本人社長がテーブルの上の分厚いフォルダを開きながら、せかせかと指示してくる。「えっと、あなたは…石川恵さん。」忙しいレストランの厨房で調理しているかのように動いていたその両手が止まる。「まずは自己紹介をお願いします。」少しの関心も見せずに命令してきた。「職務経験から、お願いします。」

私が最初の職務について話し始めるやいなや、彼の手が調理を再開し苛ついた声で遮ってきた。「これまで一つの職場で長く勤めようと思った事はないんですか。」

…えっ?

「多くの人が一つの会社で生涯を通し一生懸命働いています。仕事を転々とせず、どうして彼らのように働けないのですか。」

正直、何を聞かれているのか解らなかった。質問ではなく明らかな批判だった。こんな攻撃は予想外だ。

「そうですね、」と息を吸い込む。「転職にはいつも理由があります。」

この人は本当に「視野の広い」良い人なのだろうか。私が述べるどんな理由も彼の石頭には染み込まないような気がした。

「大学卒業後、最初の職場で2年半の間、基本的なビジネスマナーやパソコン操作を学びました。同僚は皆親切で楽しく働きましたが毎日が単調で、次第に違う世界を見てみたいと思うようになりました。」

全ての転職理由を説明しないといけないのだろうか。

「広島で一か月間ファームステイをした後、東京に戻る決心をしましたが、まだ何が本当にしたいのか分からず…」

社長が腕時計を「あからさまに」見やる。もちろん、私の転職理由などに興味はないのだろう。

「…それに、毎回無期雇用の社員として採用されたわけではありませんので。契約が終わると仕事を変えないといけませんでした。」今日の日本にどれだけ多くの契約社員が存在するか、彼は知らないのだろうか。

「要するに、違う職務経験がしたかったわけですね。」社長は無関心に頷くと、次に英語で自分の長所について話すよう指示してきた。

私はすごく緊張して声が力み震えたが、自分の長所は整理整頓だと話した。

「ファイルを整理し、必要なものが即座に見つけられるようにします。時間管理も得意です。自分で自分の業務を管理できる時は、残業をした事がありません。」

「英語で話す時は、あなたは急に自信を持って流暢に話しますね。」と社長。本当に感心している様子だから、私には第二のショックだ。

「さっきまではおずおず話していたのに、もしかして英語で話す方が楽なのですか。」と皮肉や冗談ではなく聞いてくる。

「全然です。」という私の答えに、社長は穏やかに微笑んだ。恐らく私が謙遜していると勘違いしたのだろう。

話すうちに彼の私に対する態度はだんだん優しくなってきた。最後に社長が「人から好かれますか。」と質問してきた時は、ほとんど「あなたは人から好かれるでしょう。」と断言しているように聞こえた。

人から好かれるか?

ITCMではリクルーターやITエンジニア達からは好かれていただろうが、フレッドとカレンが私を好きだったとは思わない。RAでは鼠からは好かれ、奈美子には嫌われていた。どうしてこの面接官は誰も答えられないような事を聞いてくるのだろう。

「そう思います。」と彼の期待を満たす事にした。「私は平和主義者で協調するのが得意なので。」

満足気に頷く社長を見ると、私は嬉しい。ほら、私はこんな愚かな「平和主義者」なのだ!

幸い、御成門での次の面接の前には十分な休憩時間があった。セブンイレブンのカフェテリアでおにぎりを食べながら、私の聖書「チンプ・パラドックス」を開く。「どうして」ではなく、「どう」と考えるよう本が教示している。恵、「どうして」あの老社長が面接の初めあんなに攻撃的だったのか考えるのは止めろ。理由を知ったところで何にもならないのに、私の頭には既に「彼は自分の時代は生きていくために会社の奴隷になるしかなかったから、海外勤務経験を持つ若い世代に嫉妬しているのだ。」というような推論が浮かんでいた。こんな無駄な推測は止めて、代わりに「どう」次の面接を楽しむかに集中するのだ。

派遣社員の紹介だったから、派遣会社のリクルーターと一緒に面接を受けた。ITCMの由美を連想させるリクルーターだ。30分ほどの面談の後、結果についてすぐに連絡すると言われ、帰宅途中ガラケーが彼女からのメールを受け取る。今しがた面談した会社、GISESから採用の意向をもらったと書いてあった。次の駅で電車が止まると彼女に電話をかけ直し、その後ミックからの電話にも応えた。

「今朝の面談はどうでしたか?」とミックが期待して聞いてくる。

「すごく良かったです。」と嘘をついた。「社長から船舶についていろいろ教えてもらいました。」

社長の失礼な態度はミックのせいではないから、明るく話すよう努める。

「こんな機会をいただけて本当に感謝しています。ただ、実は一分前に別の派遣会社から採用の通知をいただきました。」

プロのリクルーターらしくミックがおめでとうと言い、その就職先に決めた理由を尋ねてきた。

「私達の方がだいぶ高い報酬を提示できますよ。それに派遣社員の雇用形態だと、契約が終わったらまた次の職場を探さないといけません。」

確かにそうだ。「どうして一つの職場に長く勤めないのですか。」船舶会社の社長からの批難が蘇る。

「その派遣先の会社の人達が親切で信頼できると感じました。私にとって一緒に働く人達は重要なんです。」とミックに説明した。「それに雇用契約が終了したら、また人材紹介をお願いしますから、そしたらミックさん次のチャンスがあるじゃないですか。」

二人で笑った。

家に帰るとキムに仕事が決まったと報告する。日本の社会では派遣社員は下のランクに位置付けられているが、アメリカにいるキムは気にしない。

「そしたら金曜は早く退社させてもらえるんだね?すごい良い職場じゃん。バレエ続けられるね!」

彼女は私にとって何が一番重要か、よく分かっている。

***

2019年8月22日

派遣先のGISES社に9月1日から出勤する事が決まった。一週間休みがあるが何の計画もない。ずっと家に引きこもるのは吃音を悪化させるから、どこかに出かけないと。でもどこへ?友達は皆それぞれの生活で忙しいし。

そうだ、立川警察署で運転免許証の更新にでも行くか。すごく楽しみ…?

***

2019年8月25日

すごく楽しみ。今夜は久美子とダンスの舞台を見に行くのだ。久美子がどこからか私の分のチケットも手配してくれていた。真夏の太陽が沈み始めた頃、荻窪駅で待ち合わせ丸の内線に乗る。私の乗り物酔いと久美子の難聴のせいで、二人とも車内で立ち上がり何度か席を移る羽目になった。私は久美子の右側に座り、なおかつ電車の進行方向を向かないといけないのだ。日曜で電車は空いていたから、ついに二人に最良の席を見つけて落ち着いた。

「今夜の舞台に河合先生も出るって、私話したかしら。」久美子が尋ねる。

そんなの聞いていなかった。

「そうなんですか。」と、彼女の黒いイヴニングドレスの上に輝く薄紫のネックレスを見やる。急に自分の普段着を後悔したが、先生は舞台から私達の方など見えないだろうから大丈夫。

「今年、河合先生はゲストだから主演はしないのよね。」先生が毎年舞台に立つ事を当然私も知っているかのように、久美子が続ける。「去年は主役を演じたんだけど、すごく素敵だった!」

「そしたら舞台は物語みたいなの?」ただダンスを見るだけと思っていた。「物語大好き!」

物語に違いないと久美子が答える。「いつも私は話の内容はあまり覚えていないんだけどね…ほら、私もブロードウェイは初心者だし。」

「ブロードウェイ?」

「そうよ、知らないの?私達の先生はショーで踊る人なの。」先生の生徒の間では常識みたいだ。「実は河合先生の専門はバレエではなくてね―」

そう言えば、前に玲子が河合先生は他の施設でジャズダンスを教えていると言っていたような。

「-先生はミュージカルの舞台演出とか、いろんな事をされているのよ。」

「ミュージカル!」

ただ舞台で踊るだけではなく、何百人もの前で話したり歌ったりするのか。そしたら先生は、絶対に私の吃音者視点から見た第三種の人間ではないだろう。もちろん違う。

「そうそう、」私の心を読んだみたいに、久美子が頷いた。

目黒の劇場ロビーで何人か顔見知りと会った。同じく舞台に招待された数人のバレエマダム達と久美子が立ち話している間、私は高い天井の下の壁に貼られたポスターを眺める。今回の舞台は、このプロのダンスグループの六十五周年記念なのだと書いてあった。グループの創立者は全国的に有名なダンサーらしい。私の従妹は漫画「ガラスの仮面」を全巻読んで、サンリオピューロランドで踊っていた事があるから、このダンサーを知っているに違いない。

久美子と二人で観客席に落ち着くやいなや、バレエマダムの一人がこちらへやって来た。

「キャンセルされたチケットがあるの。この席からの方が舞台が良く見えますよ。」

私が口を開く前に久美子が「まぁ、それはお気遣いありがとうございます!見て恵さん、これ一番良い席よ!」と叫ぶ。

「いえいえ、チケットの所有者が急に来られなくなったみたいだから。誰かにあげられて良かったわ。」と彼女は微笑んで立ち去った。

なぜか私はこの親切な申し出に居心地悪く感じる。「あそこの席、私には良すぎるかも。」吃りを抑えながら言った。「ほら、あそこにいたら途中で居眠りとかできないでしょう。」

「そりゃあできないわよ。」と久美子は笑い、私を促す。「さ、移動しましょう。ここの方が落ち着くのは分かるけど、こういう申し出は喜んで受け取るのが礼儀よ。」本当に私の叔母みたい。「ほら、もうすぐ幕が開くわ。急いで。」

薄暗い明りの下、より前へより中央へと進んでいく彼女の背を追う。

ベルが鳴り劇場中が静まり返った。座席は新しいバスの中みたいな匂いがする。幕が開くと、ふと舞台を直視できなくなった。舞台上部の眩しい白色灯のせいだろうか。それともダンサー達の色鮮やかなドレスや素早いステップに目が回っているのだろうか。

バレエの先生が舞台に現れた時、自分に何が起こっているのかわかった。

「ほらあそこ!」久美子が私の肩を叩き囁いてくる。「河合先生よ。白い帽子を被ってる。」

彼の姿が見えた瞬間に気づいていた。どうして久美子は私が気づかないと思うのだろう。でもただ頷き返す。

第一幕の間ずっと先生を直視できなかった。大波スポーツクラブではいつも彼の一挙一動を真似しようと凝視しているのに、不思議だ。今はまるで先生が繊細過ぎて見たら壊れてしまうかのように、目が巧みに舞台上で踊る彼を避けている。既に脳裏に彫り込まれている姿形なのに、私にとって先生は舞台で気軽に楽しめる展示品ではないのだ。

短い休憩の間、久美子と二人で河合先生が格好良かったと賛美したが、正直私は彼の周りの他のダンサーしか見ていなかった。幕が進むにつれ次第に気持ちが落ち着いてきて、画家とその恋人たちの物語を楽しんだ。恋愛の開花は一瞬で、残りはずっと苦しいだけ。でも私はいつも短命な物に惹かれる。流れ星や桜の花、空に浮かぶ雲、そして一瞬私のタイムマシーンを留める眼差し―。永遠は求めない。

先生が違う衣装で舞台に現れる度に久美子が私の肩を叩く。「河合先生あそこよ。杖を持ってる。」正直ちょっと痛い。だが最後の幕で彼女は静かになり、ふと横を見ると隣の席でこくりこくりと頷いている。確かに単調な場面だった。四色のグループに分かれたスラリと背の高い女性たちが、不可思議な音楽に合わせて扇子をゆっくりと仰いでいる。「本当に」舞台の途中で居眠りしている友人の姿に、思わず微笑んだ。

舞台の後、久美子とバレエのクラスメイト二人に加わって夕食に出かけた。皆荻窪に住んでいたから、ルミネ荻窪の日本食レストランに入る。大波スポーツクラブの他のクラスやフィットネスが話題になり、クラスメイトの一人、香織が一年前の自らの写真を見せてくれた。

「ジムに通い始めてから体の大きさが半分になった、って河合先生がからかうよ。」と誇らしげに言う。

「すごいね!」と皆で彼女を褒めた。「一生懸命運動したのね。」

何か努力した事を河合先生に認められ、からかわれる自分の姿を想像し始める。何故か分からないが、女性達が敬愛を込めて先生の話をするのを聞くのが好きだ。

今夜の舞台はどうだったかと香織に聞かれ、「すごく良かったです。私、こういうショーを見るのは初めてだから。」と答える。

そう、今夜は新しい世界を見た。私のバレエの先生は舞台では別の人だった。きっと元々私の知らない華やかな世界に属する人なのだろう。結局私も久美子と同じ、心のどこかでよく知りもしない河合先生の姿をした自分だけの王子様を描いていたのかもしれない。休息を知らないタイムマシーンのような脳を持つ私が、金曜のバレエのクラスに出ている時だけは「その時」を生きていた。この走り続ける思考も、河合先生がいるスタジオからは何処へも旅して行かなかった。

これから新しい側面が見え始め、妄想の形が変えられていくのだろう。物語の終わりを見るのはいつも少し怖いけれど、成り行きに任せよう。永遠は求めない。たとえ久しく続いてきた希望でさえも。

2019年7月 < > III

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